先生の選択

「眼で読むことは頭に入り、耳で聴くことは心に入る」という光野桃氏のエッセイの文章に、答えを見つけた気がした。
ここ何年か、わたしにとっての「先生」が突然増えて、先生が増えたのは、学びたいことが増えたからで、自然なことなのだけれど、複数の先生を持つと、先生って何だろう?と考えることにもなる。
特に、与えられた先生ではなくて、じぶんで選択する先生となると、なおさらに。
技術と知識を教えてくれれば、先生としては、じゅうぶんなのかもしれない。
ところが、その先生のなまの講義を聞きたいか、その先生にじかに会いに行きたいか、ということになると、じぶんの中で、ハードルが立てられていく。
わたしの場合、なぜか先生の話し方、先生の声が、ハードルみたいなのだ。
声の美醜の問題ではなく、話し方に、人間性がふと姿をあらわすような気がすることがあって。
学びかたが、座学のスタイルの場合、本だけでは済まず、先生の講義を聴く、先生の声を聴くことが必須になる。
もしも、文章など眼から学んだことが、頭に入り、耳で聴いて学んだことが、心に入るとなると。
学ぶことは、「心に入る」段階まで来なければ、完成しないような気がする。
技術と知識を頭に入れることが目標である場合、技術力を重視して、先生を選べばいい。
心に入ることを目指す段階になったときは、わたしは先生を選択しなくてはならない、と思う。


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