喜ばれること、仕事になること

わたしってスゴイでしょ!ではなく、あなたってスゴイでしょ!になったとき、それは商売になるのではないか。
そんなことを思った。
うちの商品はスゴイんです!じゃなくて、お客様はスゴイんです!になること。
お客様はスゴイんです!からひろがって、世界はスゴイんです!未来はスゴイんです!になること。
そう思ったのは、知人からの、勤務先で定年退職した人から、奥さんの音楽関係の舞台のチケットを買うよう、舞台があるたびに連絡が来るので、逃げ回っている、という話が発端。
人に見てもらう、聴いてもらう、ことが完成形の趣味って、ときにはだれかに迷惑をかけてしまうこともありそうだ・・・。
発信者(わたし)ってスゴいでしょ!と、受信者(あなた)に伝えようとすると、そうなるのかもしれない・・・。
これを、受信者(あなた)ってスゴいでしょ!にもっていくには、発信者にお金と時間を使う、あなたの選択眼のスゴさ、にもっていくとか。
あなた・世界・未来はスゴい、もっとスゴくなるお手伝いをしたいんです!にもっていく。
スゴイわたし(商品)を見て!お金を出して!じゃなくて、スゴイあなた(世界・未来)を見て!お金を使って!のほうへ。


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先生の選択

「眼で読むことは頭に入り、耳で聴くことは心に入る」という光野桃氏のエッセイの文章に、答えを見つけた気がした。
ここ何年か、わたしにとっての「先生」が突然増えて、先生が増えたのは、学びたいことが増えたからで、自然なことなのだけれど、複数の先生を持つと、先生って何だろう?と考えることにもなる。
特に、与えられた先生ではなくて、じぶんで選択する先生となると、なおさらに。
技術と知識を教えてくれれば、先生としては、じゅうぶんなのかもしれない。
ところが、その先生のなまの講義を聞きたいか、その先生にじかに会いに行きたいか、ということになると、じぶんの中で、ハードルが立てられていく。
わたしの場合、なぜか先生の話し方、先生の声が、ハードルみたいなのだ。
声の美醜の問題ではなく、話し方に、人間性がふと姿をあらわすような気がすることがあって。
学びかたが、座学のスタイルの場合、本だけでは済まず、先生の講義を聴く、先生の声を聴くことが必須になる。
もしも、文章など眼から学んだことが、頭に入り、耳で聴いて学んだことが、心に入るとなると。
学ぶことは、「心に入る」段階まで来なければ、完成しないような気がする。
技術と知識を頭に入れることが目標である場合、技術力を重視して、先生を選べばいい。
心に入ることを目指す段階になったときは、わたしは先生を選択しなくてはならない、と思う。


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車と家と旅

以前、宝くじに当たった人は何を買うんだろう?と思って、当選者のブログを検索してみたことがあった。
なぜか、女性のブログは見つけることができず、男性のブログをいくつか見つけた。
細かな差はいろいろあれど、大金の使い道は、面白いくらいに共通していた。
車、家、旅。
である。
免許を持っていないわたしは車という使い道は選べないし、十年前から飛行機に乗らないほうがいい身体になったので、海外旅行という使い道も選べないし。
あるとしたら、家なのかなあ。
と、当たってもいないのに妄想していると。
昨日、ポストに入っていた不動産のチラシが目に止まった。
近所の億ションだ。売りに出るなんて珍しい。
億ション」という文字通り、チラシに掲載されていた売値は二億五千万円あまり。
戸建てじゃないよ、マンションの価格だよ。
わたしはときどき学びのため、不動産のチラシに乗っているマンションや戸建ての家相をチェックしている。
だから、二億五千万円の家相って?と一気に、興味がヒートアップ。
たいていのマンションは、間取りはともかく、全体の形は画一的だ。たいてい、長方形でしょ。
ところが、その億ションの部屋は、全体の形がとても変わっていたのである。
その形を見た瞬間、住人の生活が長続きしない家だ、とすぐわかった。
間取りをよく見ていると、全体の面積のわりに、収納スペースがものすごく少ない・・・23畳ものリビングがあって、寝室が3つ。
なんだか生活感がない。生活するための家ではなくて、別の用途の家なのかもしれない。
たとえば、外部の人を対象にした、大々的なホームパーティを開く用途みたいな。
こどもがすくすく育っていくような間取りではない。
そっか、億ションって・・・・ライフじゃなくビジネスに針がよるのかも。
食う寝るスペースに、「億」の価格がつくと、異常さが出てくる。
ライフスペース以外のスペースをもっていないと、その価格はつかない。
たとえば、王宮殿に住む人々がいて、その王宮は億単位に相当するだろうけれど、そこは住人のライフスペースだけではなくて、政治や外交やビジネスのためのスペースも含むはずで。
・・・わたし、億ション欲しくないなあ。というより必要ない。
なんて綴っても、貧乏人のやっかみにしか聞こえないだろうけれど。
車も旅も家も、もしもわたしが宝くじに当たった場合の、当選金の使い道ではないみたい。

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人の好みを笑うな

誰かに対して、「ひっかかり」を感じはじめることがある。
あれ?という違和感のカケラが、ひゅっと飛んできて傷つく感じ。
そのカケラは、誰かの、根性、性根、根っこのぶぶんから生まれているような感じで。
つまり、よほどの大転換がないかぎりは、なくなるものでも、変化するものでも、なさそうなぶぶん。
そのひっかかりのカケラを投げてくる誰かが、仕事などの、パブリックな人間関係であれば、受け流せる。
そういうカケラを持っている人として、パブリックな関係を、必要な期間だけ、保てるように割り切る。
だって、パブリックな人間関係は、じぶんで決めた人間関係ではない。
でも、プライベートな人間関係は、じぶんで決める人間関係である。
(家族などのドメスティックな人間関係はまた別。)
パブリックではなくて、プライベートな人間関係だから、じぶんで決められる。関係を断ってもいい。
わたしがいま勉強していることは、社会的な地位が高いものとはいえない。経済的な効率だって悪い。
でも、理解するのにはけっこうな知力が必要で、人を鑑定できるほどの知力に達するまでは最低四年かかる学問。
そういう点をまったく知らないままに、社会的な地位が低いというイメージをまず先入観で固定したうえで、四年もかかる上に、時給も低いですね〜好きじゃなきゃできないですね〜、と言いつつ、でもじぶんに対する情報は欲しがる。
でも、対価を支払うレベルの情報だとは考えていない。たぶんこれからも。
時間当たりの収入額と、社会的地位の高低が、その人が尊敬する判断基準だから、それを得るべく大変な努力をしている人。
その人の尊敬対象外の内容にむかって努力しているわたしは、その人と会うだけで、傷つきそうである。
プライベートな関係はじぶんで決めていい、とじぶんに言い聞かせる。
誰かが何かを大切に思っている、何かが大好きという気持ち、その何かがなんであっても、まったく理解できなくても、誰かの思いや気持ちを傷つけてはいけないと、じぶんに言い聞かせる。

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人のことを願う

先週末、増上寺の前を通りかかって、境内に入る。
そういえば、東京に住んで二十年超えているのに、増上寺に来たことがなかった。
増上寺というからには、「お寺」なのだが、境内には、神社のような清涼さがある。
建築物も風格があるし、威厳に満ちた巨木もゆったり立っている。東京タワーを背後にしたお宮も、とてもフォトジェニック。
境内には、七夕のカラフルな短冊がゆらぐ笹木が1本立てられていた。
そうだ、もうすぐ七夕なんだ。
もう一本、床に寝かされている笹木があった。
まだ短冊(1枚100円)受付中で、未完成らしい。
ふと、一枚の短冊に書かれたお願いごとが目に入る。
「私の大好きなえりながだんなさまと幸せになりますように」
と書かれている。
じぶんの願いごとじゃなくて、人の願いごとをしたんだ、この短冊。
「えりな」は、書いた人の妹かな、姉かな、娘かな、ともだちかな、元カノかな、ペットかな。
知らない「えりな」についてしばらく思索。
人のことを願うって、いいなあ。
「ペットがかえておかねもちになれますように」と書いてある短冊も、それはそれでほほえましいが。(実在の短冊)
同日に、sousouで夏ものの服を買ったら、笹模様のミニ屏風の中に短冊を一枚いれることができる七夕飾りのプレゼントをもらう。
さっそく、短冊に、人のことを願って、文言を記してみる。

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BOOK:「わたし史上最高のおしゃれになる!」

そういえば去年、シャツをほとんど着なかったなーと思い出して、昨夜自宅でシャツを着てみる。
うん。どうして着なかったのか、わかった。
立ち襟で、スリムシャツ。
シャープな線で構成されたシャツは、わたしの顔に合わなくなっている。
このシャツの上に乗っかるのは、わたしの顔じゃなくて、別の顔、シャープな顔でしょ?って感じ。
立ち襟だから、首をとりかこむ線までシャープになってて、そのすぐ上にシャープじゃない顔があるから、ギャップに拍車がかかるわ。
無理してシャツを着るのは終わり、シャツより柔らかい素材に、わたしは移行したのだ。
服は変わり、人間も変わる。どんなに高価でも、永遠に着られる服はない。
昨夜この心境に思い至ったのは、以前から、ブログを楽しみに読ませていただいていたNaoko Kobayashi(小林直子)さんが出版した、はじめての著書「わたし史上最高のおしゃれになる!」を読んだから。
そして、著書の中の、おしゃれの手法のひとつ「リレーション」の実現を、先週偶然、NHKの語学番組「旅するドイツ語」で眼にしたのだった。
別所哲也とともに、ウィーンを散策するウィーン出身の先生、スザンネさん。
スザンネさんは、赤いフレームの眼鏡をカチューシャ的に髪に飾り、コートの襟に、とてもちいさな赤いフレームの眼鏡のブローチ、そして、スニーカーの靴紐が赤。他の部分に赤は使っていない。
これがリレーションか!と感嘆する。
スザンネさんは、若くもなく美女でもなく、高価そうな服を身に着けているわけでもなく高価そうなバッグを持っているわけでもなく、凝ったデザインの服を身に着けているわけでもない。
どこにでもありそうな、デニムにニットにコートという服装。
でも、色数を制限するルールと、リレーションがあるから、とってもおしゃれに見える。
小林直子さんによると、リレーションをつくるアイテムは、じぶんのテーマを決めて、時間をかけてコレクションしていくもの。
スザンネさんも、突然、赤い靴紐や赤いフレームのめがねブローチを購入したわけではなく、ふだんから、じぶんのリレーションのイメージをもちつつ、出会ったアイテムを手に入れてきたのだろう。
そして、リレーションのアイテムも、たぶんぜんぜん高価なものではない。
「旅するドイツ語」のスザンネさんにこれから注目しなければ!(ドイツ語学習にはぜんぜん意識がいかないが)
そして、小林直子さん、ありがとう。

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お金を使わないと、何も残らない

とつぜん、タイトルの言葉が浮かんだ。
お金を使わないと、お金が残る。
お金は、「何か」の引換券となるもの。
「何か」と引き換えていないのなら、そこには何もないということ。
「何か」は、不可視のモノからもしれないし、可視のモノかもしれない。
「何か」は、ずっと残っているものではなく、飽きたり、捨ててしまったりするかもしれない。
でも「何か」があった経験が残る。
「何か」の経験を通り過ぎた人間がそこにある。
仕事の面でも、プライベートの面でも、さまざまな経験を通り過ぎてきた固体は、いとおしいと思う。
お金を「何か」と引き換えるときの、選択眼。ものさし。価値観。センス。
それは、経験から生まれてくるもの。
経験がないと、お金が基準になる。
つまり、価格・割引率などの「お金の顔」が、ものさしになりがちになる。
引き換える「何かの顔」ではなく、「お金の顔」を見て、選ぶことになる。
「お金の顔」は、見えやすいし、わかりやすい。
「お金の顔」を見ていると、引き換えたい「何かの顔」が見えない。
散財がいいわけでも、高価格のものがいいわけでもない。
(散財も高価格も、お金の顔を見ているということではないか?)
未来に「何か」と引き換えるために、お金を残しておくのも自然なこと。
でもお金の顔だけを見ていないように気をつけたい。
それは仮面。仮面の向こう側には、「お金」じゃなくて「何か」がある。