映画 スイミング・プール

今週のお題「人に薦めたい映画」
フランソワ・オゾン監督作「スイミング・プール」は、脳にさざ波を起こす映画。
イギリスのミステリー作家サラ(シャーロット・ランプリング)は、次回作の執筆のため、出版社の社長の勧めで、彼が所有する南フランスの別荘にやってくる。
ところがそこに、社長の娘と名乗るジュリー(リュディヴィーヌ・サニエ)が現れる。
静かな執筆活動にいそしもうとする中年女性のサラと、毎晩行きずりの男を連れ込み、夜の間は半裸か全裸状態のジュリー。
イギリス女の堅実と、フランス娘の奔放の対立は、そのまま二人の女優の競演となる。
やがてジュリーは、サラにとって作家魂をそそる、魅力的な素材(ネタ)となっていく。
何かがおかしい。でも何がおかしいのかわからない。
見ていると、そんなひっかかりが、映画の中にいくつも現れる。
現実世界が、小さなエラーを起こしたように、バグのような非現実さが、紛れ込んでいる感じ。
水色のプールの傍らに斜めに置かれた、思わせぶりな句読点のような赤いプールマット。
ジュリーのおなかの傷跡。
何度もしまい込んでいるはずなのに、サラの部屋の壁に突如、何度も出現する十字架飾り。
プールの水面に、室内の鏡に、窓ガラスに、頻出するサラの鏡像。
当初、保護カバーに全面を覆われ、枯葉に澱んでいたプール。
そのプールは、ジュリーの出現とともに、カバーが取り外され、清掃される。
作家サラの「ネタ」が現れた瞬間に、プールは再び呼吸を始める。血が通いだす。
プールは、サラの脳である。
枯渇しかけていたサラの作家としての脳内活動の、再生が始まる。
三谷幸喜の映画が、「クリエイターが自作を生み出すときの葛藤」がテーマであることが多いように、これもそのテーマの映画。
見る者の脳内を、不思議なさざ波で揺らし続け、クリエイターが作品を生み出す葛藤のゆらぎに、知らぬ間に誘い込まれていく、感覚を楽しんで。
季節も夏、舞台も夏の避暑地の別荘地。夏休み特有の、ゆるさとだるさ、強すぎる太陽の光、眠れない夜。
これは夏休みにこそ、見たい映画。
映画を見ている間ずっと、脳のさざ波は続く。
映画の終末には、大波が来る。
大波を味わえるのは、見た者だけの、特権である。
ざばーん…。