BOOK:カネ遣いという教養 私的メモ

「教養とは、ひとりで時間をつぶせる技術のことである。」
中島らもの、この「教養の定義」になるほど、と思ったのは、十五年くらい前だったか。
原敬之の著書「カネ遣いという教養」に記された教養も、つまりはこれ。
ただし、著者の場合は、その活動にカネが伴っている。
音楽、本、食、家具、器、文具、カメラ、時計、茶道と、お金を出して、モノや体験を買うことは、作り手、売り手、がお金を得ることになるのだから、誰かのためになるお金の使い方のひとつであると思う。
著者は、大金も、代価物も今は失ったが、それらのカネ遣い活動によって得た教養は残っていると。
・・・・・・。
ということは、カネ遣いの最終的にして究極の目標は、「教養を得ること」だろうか。
そこで、中島らもの教養の定義=ひとりで時間をつぶせる技術、に戻ると。
たとえば、雲を眺めているだけでも楽しい、つまり雲を愛でる目と感性を持っていれば、ひとりで時間をつぶせる技術=教養を持っている、ということになってしまうわけで、そこに大金は必要ない。
ところで、この、中島らもの教養の定義は、インターネットが登場する前の発言によるものだ。
恐ろしいことに、インターネット=ひとりで時間をつぶせる技術に該当してしまうのである。
そして、茶道を極めることとは違い、インターネットを使うには、大金を必要とするわけでもない。
そこで、思い出したことがある。
数年前のこと。
友人との食事中の会話で、友人の兄が会社を辞めた、という話になった。
友人の兄は、入社を望む人間が山のようにいる二大広告代理店のうちのひとつ、Hに入社したのに、数年後に辞めたというのだ。
その理由は友人いわく「英語を使いながら仕事ができると思っていたのに、そうではなかったから」というもの。
もちろん、本当の理由は別にあったのかもしれないが。
友人の兄は、十代の頃からずっと、英語力の取得に情熱を掛け続けていた人、とのこと。
Hを辞した後は、ネット広告会社Sに転職し、そこも「英語が使用できない」という理由で半年たらずで辞し、今は、イギリスが本社の旅行代理店の日本支店に勤務中とのこと。
たぶんそこでは、英語を使う時間と場が存在したのかもしれない。
それを聞いて、私は友人に言った。
「英語を使って何かがしたい、という「何か」の部分をメインにしないと、同じことを繰り返すんじゃないかな。ほら、「英語がしたい」っていう文章にはならないでしょ。英語って、あくまでもツールなんだよ。」
私が、この会話を今、思い出したのは。
ツールには、本来、目的がある。
しかし実は、ツール自体に熱中する、楽しむ、ことも可能なのだ。
「カネ遣いという教養」の書の中で行われてきたことも、これじゃないだろうか。
教養とは、目的を持たずに、ツールそのものを楽しむこと。
となると、友人の兄は仕事ではなく、教養を深めることを求めて、転職を繰り返していることになる。
当然だ、仕事には目的があるはずだけど、教養には目的がないのだとすれば、そのふたつは相反するもの、永遠に平行線のはず。
それにしても。
「インターネット」は、英語と同じく、ツールのはずで、「インターネットを使って○○をする」という表現が正常のはずなんだけど、「インターネットをする」という表現が、不自然ともいえないのが怖い。
インターネットが使えれば教養がある、ってことになってしまわない?
教養というと聞こえがいいけれど、つまりは快楽と同じではないだろうか。
快楽のかたちが、人それぞれ違うというだけで。
「カネ遣いという教養」ではなく「カネ遣いという快楽」というタイトルでも、さしつかえないと思うよ。