主観ショットを抜け出せ

映画のカメラワークで、登場人物の視点から撮影した映像を「主観ショット」という。
これを知ったときは、へえ、面白い〜と、これは登場人物Aの視界だよね、なんて思いながら映画を見たりした。
あるとき、これは映画の中の登場人物の誰の視界でもないけれど、画面には映っていない、でもたしかに画面の中にもうひとりいる「誰か」の主観ショットでは、しかも全編に渡って、とひらめいたことがあった。
その「誰か」って、誰?と考えたとき、ええっ「私=観客個人」だ!と気がついて震撼した。
(ちなみにその映画のタイトルは「4ヶ月、3週と2日」)
ところで「主観ショット」はカメラワークの一手法として存在するけれど、じゃ、その反対の「客観ショット」ってあるのか?と思ったら、そういうものはないらしい。
映画そのものが客観の視界の映像なのだから、対立ではなく、上位、カバーする位置になるからか。
ただ、便利なので、ここで、「主観ショット以外のショット」に「客観ショット」という用語を使うと。
イメージコンサルティングを受けて、自分の服装に訪れた変化は、「主観ショット」だけで服を選んでいたところ、「客観ショット」で服を選ぶことを発見する、ということだったと思うのだ。
これ好き、着たい、欲しい、という気持ち「主観ショット」だけで服を選ぶのではなく、これを着た自分を、客観的に見たときにどうなのか?という「客観ショット」でも判断すること。
この考え方は今、着物初心者の位置にいて、再認識している。
着物や帯って、デザインは統一されているから、あとは布地そのもの、平面の世界に集中できる。
またその平面の世界にこれでもかこれでもかとつぎこまれた日本の芸術、技術、センスの美しさといったら。
この色きれい!この文様、織、刺繍、素敵!着たらきっと素敵!欲しい〜。
選ぶほうは、主観ショット全開である。
この、視点の近さから、カメラをひくと、温度が下がるはず。
客観ショットに切り替えることで、冷静な、醒めた視線が加わる。
ただ、着物や帯の画像をあれこれ見ていると、あ、これいいな、と思うものが
あって、どうして自分があまたある品物の中から、これをいいなと思うんだろう、というのも不思議で、それって自分の中の、未知の「好き」の発見でもあって、
ふうん、私こういうのが好きなんだ、という他者のような自分の新たな発見に、気持ちが高揚する新鮮な感じ、これは捨てがたく魅力的である。
客観ショット100%はつまらない。
主観ショットも大切にしたい。
ふたつのショットを行ったり来たりしながら惑う。
いい塩梅にふたつの使い分けができるようになるまでには、時間がかかるのだろう。