港が必要

都会的な海と、そうじゃない海がある。
都会的の反対なら、田舎的な海…と言うには、合わない。もっと愛らしい感じ。
鄙(ひな)の海、と呼んでみます。
今月は、都会的な海と、鄙の海のそばに行った。
人間にもたらす作用が、ぜんぜん異なる。
都会的な海は、頭脳にスイッチが入って、回転しはじめる感じ。
と同時に、頭が開かれて、オープンになって、そこにわーっと、情報が入ってきて、それを迎え入れる、って感じ。
よく眠れるんだけど、眠っているあいだにも、頭の中にいろいろなものが入ってきて泳ぎ回っている感じ。
人間が、活動的、いい意味で戦闘的になる作用。
アップルが、日本に研究開発拠点を置く場所に、都会的な海のそばを選んだってことが、すごくよくわかるよ。
鄙の海は、逆に、頭脳のスイッチを、オフにする。頭の回転をとめる。
オフって、必要なんだよ、必要なことなんだよ。
頭への情報の流入をとめて、回転をとめて、水中を泳がずに、身体を浮かせてただよっている感じ。
人間を、沈静、休養させる作用がある。
今朝、鄙の海辺の地元のバスに乗っていたら、1歳と2歳の女の子を(運転手に申告していたのでわかった)連れたおとうさんが乗り込んできて。
菜の花みたいに可愛い女の子で、この子こそ、鄙の海辺でとれた女の子だわ、と思う。
私はマスクをしていた状態で微笑んだので、目しか見えていないはずだが、2歳の女の子は微笑に気づいて、微笑み返ししてくれました。
こどもと犬と男の人は、女の笑顔に敏感だ。(差別的発言ではなくて、ほんとうに、そうなんだよ)
鄙の素直も、都会の洗練も、どちらも魅力的。
海のそば、って、つまり港ということなんだろうけど。
かつて、松本隆作詞の松田聖子の歌「メディテーション」の中で、
「もしもあなたが船だったら 港になりたい」
というフレーズがあって、今なら時代錯誤的な歌詞だと攻撃されそうだけど。
船=男、港=女という比喩をとっぱらってしまえば。
人には、生きていくうえで、色々な港が必要かもね。