なぜ生きる

人はなぜ生きるのか?
永遠の問いだ。
さまざまな人による、その答えは、膨大にして長尺なことが多い。
結局、つまり何がいいたいの?という曖昧な結末だったり。
私が今まで自分の中で持っていた答えは、とってもシンプルで、「人は、生きるために生きる」というもの。
この答えだと、迷いがなくなる。
けれど、思考停止にしちゃう答えでもある。
もっとも、この問いは、そもそも思考するような問いじゃない、というのが、正しい答えなのかもしれない。
昨日、その答えが追加&更新。
「人は、自分自身を知るために生きる」。
これだと、主軸が自分に来て、もっと前向きになれる感じ。
自分がどうであるのかは、自分でもわからない・・・と思うのだ。
自分にはこんなこと、絶対に無理!とか、畑違い!とか、こんなことしたって楽しくない!とか思い込んでいたことが、そうでもなかったりとか、その逆とか。
自分がこういうことをしたらこうなるんだ、自分にこういうトラブルが来たらこうなるんだ・・・という自分を知るための、旅路。
知らない自分を知っていくために、生きる。
もともと「自分大好き」という人は、生きる力も強い人だと思う。
「自分ダイキライ」という人は、もしかして「自分がわからない」から嫌いなんじゃないか?
わからないものに対して、わからない=悪いもの=嫌い、批判、悪口という流れになることはよくある。
(たとえば、村上春樹の評価は、賛否両論の歴史が続いているが、気のせいか、超インテリ層な人ほど、「否」の度合いが強いのは、超頭のいい自分がわからないものはないはずなのに、村上春樹の著作がわからない=自分がわからないものは優れたものではない・悪い・嫌い、という流れになっているからじゃないか、と思ったから。)
自分ダイキライな人ほど、生きる必要がある。自分を知るために。