病めるときも

先月、母から、父は死ぬ間際「最後は家族しか残らないなあ」と苦笑して言っていた、と聞いた。
48歳で病死した父なので、現役世代だから、仕事仲間とか、趣味の仲間とか、大勢いたはず・・・だけど。
父は写真館を営みつつ、○画会の会員になって、アートとしての写真も作成、出品していた。
他にもアートとしての写真をつくり、発表するグループにいくつか参加。
商売としての写真より、アートとしての写真をつくることが本望だったんだなあ、と思う。
会の活動には、父は時間もエネルギーも注ぎこんでいたけれど、余命間近だと周囲に悟られるような状態になったら、いっせいに関係者が疎遠になったという。
詳しくは私は知らないし、今はシステムが変わっているかもしれないが、○画会は、会員の推薦や審査によって、入会できる。
会員である父、審査員である父ならば、価値があるが、余命間近であれば、心も時間も割く価値はない人間、ってことだったかもしれない。
病床の父から離れていかなかったのは、死亡時に本当に哀しんだのは、仕事や会に無関係な、家族や、親戚や、友人や、父が先生となって写真を教えていたアマチュアの生徒さんたちなどだった。
健やかなるときも、病めるときも・・・は、結婚の誓いの言葉だけなのではなく、友人や知人や先生や生徒や、周囲の人間に対しても、そう思えるか?と考えさせられる言葉でもある。
単に、あおりたいだけなのかもしれないが、最近目にする「結婚はコスパが悪い」説は、「喜びのときと、富めるときと、健やかなるとき」のみ愛を誓えるなら、コスパがいいってことかも。
そういうスタンスを求める人は、それが叶う人間関係を見つければ?ってことだね。(見つかるのかっ?)
いずれにせよ、「哀しみのときも、貧しきときも、病めるときも、想える自分かどうか?」を問うのは、結婚相手に限ったことではない。