タイトル変更

ロンドンオリンピックのテニスの試合の、「赤いユニフォームのフェデラー」の姿がいまだに記憶に残っている。
違和感のせいだ。
この人に赤は似合わないなあ。白以外なら青のほうが似合う。
でも赤はスイス国旗の色だから、チームユニフォームは赤をもってくるしかないか。
フェデラーが、怜悧なプレイをする人だからこそ、そう思った。
赤はむしろこの人の本来の力を抑えてしまうのではないか。
静謐な色のほうが、この人のありかたには似合う。
フェデラーが知らない人(超有名人だけれど)だったなら、赤の違和感はたぶん、感じなかった。
「自由を着る」(光野桃:著)の中の、「唯一無二の・・・・・・」という章に、違和感の答えがあった。

<「差し色」という考え方があまり好きではない。
何に対して色を差すのか。・・・色はまず、自分自身から発している。
・・・よく観察してみると、自分だけの色が見えてくるはずだ。
髪や肌の色といった物理的な色に加えて、内面から発されてくる色が混ざり合い、そのひとにしかない光を放っている。
おしゃれは物と物とのコーディネイトも大事だけれど、その前に物と自分とのコーディネーションだ。
自ら発する色や音、光と調和するものを探していく。
・・・そんな「唯一無二」の自分を発見し、慈しむことがおしゃれの根本なのだと思う。>

どんな色を着るか、どんな衣類を着るかは、その人の内面からにじみでるものに、合うか合わないかで選んでいい。
というのも、先月、旧知の人を通してやってきた服が、華やかなものばかりだったので、考え込んでしまったのだ。
いっしょに目的のお店に行って、無地のものを選ぼうとするわたしに、ううん、ぜったいこっちのほうがいいよ、と花で埋め尽くされた柄をすすめられたり、家族から、色とりどりのスカートをプレゼントされたり。
私をよく知っている人たちの言うことに従ってみるか、と思って、すすめられた服をこわごわ着てみると、こわくなくなった。
華やかなものを着ていたら、街中でおなじみの悪口や罵倒を受けるかと思っていたら、まったく受けない。
というか、ここ数ヶ月、受けない。
単に年をとったせいかもしれないし、自分の外面に関して、がんばる気持ち、戦意のかけらみたいなものがなくなって、自分のきもちありきですごそうというきもちになっているせいかもしれないし、それとも、まだ発見できていない、もっと不思議な作用のせいかもしれないし。
というわけで、ブログタイトルを変えることにしました。
わたしの力。
あまりに単純でストレートでばかみたいですが、最も、いまのきもちに、合う。