「真田丸」の個人的な楽しみ。

真田丸」で、わたしが毎回、見惚れているのは「字」である。
そこへ行くか!とつっこまれそうだけれど、「字」、つまり「書」「手紙」の登場っぷりが豊かなドラマだと思う。
なぜ見惚れるかというと、完成形としての書だけではなく、いままさに、字を紡ぎだしていく、字を生み出していく、手の運び、動きがいっしょに見せられることが多いからだ。
毛筆は、「美しい筆跡」のことを「美しい手」と言ったりする。「手本」という言葉もある。
なぜ「手」なのかということが、とても納得できる。
手の運び、動き、手から生み出されていく文字。
文字ではなく、文字を生み出していく手こそ、美しさの源!
秀吉の遺言をしたためる手、石田光成が大谷吉継の手紙を代筆していく手、キータッチで画面に現れる文字の生まれ方とは、次元のちがう美しさなのである。
筆と墨を捨て、行書体と草書体も捨てると、気づかない。
毛筆ならば、紙にいっさい手が触れないから、手が汚れない、文字も汚れないことを。
行書体や草書体なら、縦書きですらすらと文字を綴りだせるだろうということを。
鉛筆とペンと楷書体で文字を書くと、手が紙につくから、紙面も手も汚れる。
縦書きをすると、書き終えた文字の上に手が触れ(右ききなら)、文字までも汚れる。
横書きなら、まだ書き終えた文字の上に手を載せずにすむから・・・・だから、たいていの人がふだん文字を書こうとしたときは、縦書きじゃなくて横書きを自動的に選んでいるのではないかと思う。
思えば、毛筆の美しい「手」を見ることができるのは、テレビならではの、カメラの近さあってこそだ。
あとどのくらい、真田丸で、美しい「手」を見せてもらえるのだろう? そこへ行くか!とつっこまれても。