昨日、言われて

昨日の夕方、神保町で、またも通りすがりに「○ス」と言われる。
たいてい、すれちがう前まで、私はまったくその人を見ていないので、いつも「○ス」と言われて振り返り、その人の後姿だけを確認することになる。
その後姿。耳の上の部分にだけ髪の毛があり、その他は無毛の頭に、リュックを背負った人だった。
後姿だけでは判断できないから、思いがけず若い人なのかもしれないけれど、たぶん中高年男性ではないだろうか?
後姿って意外と饒舌だ。知り合いで「薄幸」な雰囲気をもっている女性がいて(その人の人生が薄幸というわけではないのに)彼女が前を歩いているのを見かけたとき、後姿からも「薄幸」な空気がしっとりと漂っていたから。
そのまま、なんとなく書泉グランデに立ち寄って、文庫本を買った。
書泉グランデは、スペース的には近所の三省堂書店に劣るのに、なぜか、三省堂よりも、買いたくなるような平積み本に遭遇する率が高い。平積みは、言わば書店店員のデザイン術に等しいと思うが、グランデにはその術が効いているような気がする。
三浦しをんのエッセイ「極め道」。
じつは、三浦しをんが、「通りすがりに○スと言われたら」に関連したエッセイを書いていると知って、収録本を探していたのだが、目次を拾い読みしても、それらしきタイトルが見当たらず、見つけることができなかった。
それが、この日、書泉グランデ三浦しをん特集として、平積みされていたワゴンの中にある「極め道」をとって、なにげなく裏表紙を見てみると、裏表紙の解説に「○ス 通りすがりの男に言われて許せる?」と記されていたのだ。
これだ、これだ、見ーつけたっ(嬉)
ちなみに、該当エッセイのタイトルは、似ても似つかないものだった。裏表紙を見るまで、発見できないはずだ。
三浦しをんは、中学生のころに、革のジャケットとパンツに身をかためた革男に、○スと言われた経験を綴っている。
「極め道」冒頭の2章ぶん、1章では足りず、2章を費やして。
最初は怒り、次に「性格○ス」であることを見抜かれたのかもしれないと思い直し、見られる対象である女子が抱える「見られる恐怖」に言及し。
さすが、プロの作家は、通りすがりに○スと言われても昇華の仕方がちがう。
私も、せっかくだから最新の「通りすがりに○ス」経験に対して、考察を深めてみることにする。
実は今回は、怒りとは別に、不思議な感覚が沸き起こった。
私に○スと吐き捨てていった人の後ろ姿を目にしたとき、たぶん「○ス」と言われでもしなければ、私はこの人の後ろ姿の画像を記憶に残すことはなかっただろうなあ、と思った。
三浦しをんは、「見られる恐怖」を抱えるのは女子で、男は「見る」立場である傾向が強い、と記していたが、もしかして男も「見られる」ことを欲する度合いがどんどん増加しているんじゃないかなあ。「見られる」は、その評価がどうであれ、「注目」であって、「見られない」は無視に等しいから。
三浦しをんのエッセイの最終部あたりに「聞いてる革男?可憐な女の子に向かって「○ス」とか言うんじゃないわよ。〜中略〜と、世の革男に呪いをかけたところで終わる」という記述がある。
私はこの中の、「呪いをかけた」という言葉に、あ、と思った。
見知らぬ人から、さんざん「○ス」と言われる状況に悩み、いろいろ対処にあがいている私なのだが、セルフヘルプとなる重要な考え方をもらった著書、その作者を連想する言葉だったからだ。
その話は、また後日に。