東電OLって、言えば

東電OLという単語が、ネット上に頻出するこの頃。
事件発生時、私は、テレビニュース程度の情報しか持っていなかった。
それ以上の情報を、積極的に求めなかったともいえる。
登場人物の中に東電OLを投影したという、桐野夏生の「グロテスク」は、面白く読んだが。

三年ほど前、勤務先で同じ部署だった十歳くらい下の女性が、ふと東電OLを話題にした。
彼女は、この事件発生時からずっと、興味を持っていたらしい。
佐野眞一著「東電OL殺人事件」の文庫本を、貸してくれた。
それを読んで初めて、被害者に共感めいた感情を持つ、多くの女性が存在していたことを知る。
犯人は誰か?ということより、被害者渡辺泰子そのもののほうが、不可解で、謎なのである。
どう見ても、エリートなプロフィールを持ちながら、なぜ毎晩、売春をする必要があったのか。
渡辺泰子に同情的、共感的な思いを持つ女性たちが、さまざまな仮説を語っている。
この本からは、テレビニュースの情報よりも数段深く、詳しい、渡辺泰子の情報が得られる。
その中の情報のひとつ。
渡辺泰子は、夜の顔を持つにあたって、いきなり売春婦になったわけではない。
街角に立つ売春婦になる前に、クラブホステスになっている。
ここから、唐突に、東電OLの謎の行動に対する、私の仮説ができちゃったのである。
渡辺泰子は、「女としての成績」をあげたかったのではないか。
売春婦になる前、まずクラブホステスを始め、まもなくその店を辞めたのは、おそらくその店では、ナンバーワンになれなかったからではないか?
売春婦になった渡辺泰子は「一晩で4人の客」をノルマとして自分に課していたという。
達成したノルマの記録を、几帳面にメモしていたという。仕事じゃないか、まるで。
客の数の積み重ねが、女としての点数の累積に等しかったのではないか。
そもそも、点数化も順位付けもできない、という対象にも、具体的なかたちで成果を欲するタイプの人間は存在すると思う。
勝間和代氏もそのタイプかもしれない気がするし)
また唐突だが、(オフ)ブロードウェイミュージカル「レント」の中の名曲「Seasons of love」の歌詞では、1年という時間を、何を基準にはかるか?という「人生のものさし」が、つぎつぎ歌われていく。
(「レント」は作者のジョナサン・ラーソンが、HIVによる死の恐怖にさらされていたせいもあって、残された時間をカウントするような発想の歌詞がちりばめられ、狂おしいまでの生への希求に満ちた、若者たちの集団夭折ドラマなのだ。好き。)
じゃ、男としての成績、女としての成績の、ものさしは、なんだろう?
容姿? 年収? 恋愛経験数? 結婚しているか? こどもはいるか? 現状複数の恋人がいるか? その人数か?
私のように、女としての市場への参戦そのものをあきらめている人間もいれば、参戦し、勝とうという目標を持つタイプの人間も、いるだろう。
スポーツの勝負や順位付けのように、わかりやすいものさしがあればいい。
でも、ものさしの姿が見えないものに対して、具体的な成果を求めること自体、悲劇を生むような、気がする。
ものさしの姿が見えなければ、自分で強引にでも、ものさしをつくる。東電OLの場合は、それが「一晩4人のペースの、客の数の累積数」だったのでは…。
これも唐突だけど、広告業界畑の著者が書いた本を読むと、つくづく広告業界の人々は、「幸福」「ハピネス」の呪縛にとらえられているんだな〜と感じる。
「幸福」「ハピネス」のものさしを、クリエイトし、時代をリードしていく使命を、自らに課している方々だから。
ただし、それらのものさしは、必ず、人々に、なんらかのお金を使わせなければならない、という制約つきだ。
幸せって、ものさし自体、無いんじゃないの?という問いは、禁句なんだろう、たぶん。