金と銀

オリンピックである。
銀は、金よりも良いと書くのよ、というCMに、反応してしまう。
正確には、「金」の横にあるつくりは、「良」ではなくて「艮」で、変わらない、さびにくい金属という意味なんだそうだ。
でも、漢字の成り立ちを根拠にされると、妙に説得力があるし、納得してしまう。
「銀」で終わった、過去のさまざまなアスリートの事例を持ち出されるよりも、漢字一文字の力のほうが勝るって、漢字とひらがなの両方を駆使する民族ならでは、である。
ちなみに私は、「玄」という崇高な意味を持つ漢字を含む名前をつけられている、という理由だけで、玄米の力を信じられるような気がして、少量でも食べ続けている。
私が知らないだけで、他にも「玄」を持っている名前の食品があるのかもしれないけれど。

もしも仮に、銀が、「金より良い」という字だったとしたら、その字をつけられた時点で、金に負けている。
銀のほうは、金をライバル視しているけれど、金のほうは、そのような感情が毛頭ない、って絵になる。
(絵、描けないけど)
ライバルは、双方が意識しあってこそ、成り立つ関係。片方だけが意識したら、その時点で負け、なのではと。
以前、大王製紙に三年勤務したことのある知り合いから、なぜ創業者が「大王製紙」という社名をつけたのか、教えてもらったことがある。
王子製紙よりも大きな会社になる、という決意と思いをこめて、その名がつけられたとのことだ。
この社名をつけた時点で、王子製紙に一生勝てないのでは、ないだろうか。
それから、親の名前に使われている漢字をもらった名のこどもは、親以上になれない、という説もあるそうだ。
友人は、その説を知る前に、わが子に該当する名づけをしてしまって、事前に知っておけばよかった〜とあせっていた。
私の勤務先の社名も、まさにこの名づけスタイルで、親会社の名前の一部をもらった社名である。
おそらく永遠に、親会社を超える存在にはならないだろうなあ。
オリンピックに話題を戻す。
ステラ・マッカートニーデザインの、ロンドン代表選手のオリンピック入場時のユニフォームは、首周りにきらめく金色の襟があしらわれ、金メダルの獲得宣言のようにも、すでにオリンピックに参加しているというだけで、我々は金メダルモノの選手なのである、というアピールをもしているような、戦略的な素敵さだった。
百分の一秒単位の争いの競技の場合、金と銀の差って、差というほどのものなのだろうか?と、戦場の外にいる者は、思ってしまう。
そこで思い出したのが、男子小学生の天才ジャズピアニストの家庭内教育を紹介したテレビ番組のこと。
親から天才少年に、お手伝いや、宿題や、ジャズピアノの作曲、などの行為に対し、規定の価格の「家庭内通貨」が、発行される。
そうやって貯めた「家庭内通貨」を使って、少年は、自分の欲しい物品(品物によって設定価格がちがう)が売られている「家庭内店舗」で、お買い物することができるのだ。
ここまで書くと、教育のありかたとしては、どこかゆがんだものになっているような気がするのだが。
この「家庭内店舗」のお買い物システムには、ひとひねりが、加えられていた。
この「ひとひねり」が、ひとつの教育になっている。
少年は、即座に、家庭内通貨で自分の欲しい品物が買えるわけではない。
まず、通貨の対価分のくじをひく。そのくじに記されている品物を、手にいれることができる。
対価金額さえ出せば、必ずしも、その時点で自分が最も欲しい品物を手にすることはできないのだ。
がんばって、家庭内通貨を稼いでも、最後はくじという偶然に左右される、というひとひねり。いらっとする回り道。
どんなに才能があっても、どんなに努力しても、欲しいものが手にはいるとは限らない。運や、偶然が左右する。
才能がある少年にとっては、これは立派な教育になっているのではないだろうか?
また話題が、オリンピックから離れてしまった。
さて、パーソナルカラーが冬と診断された私にとっては、まさに「銀は金よりも良い」のである。
コンサルティングでは、服の色だけではなく、すべてのアクセサリー、バッグに使われる金具やジッパーに至るまで、金色よりも銀色を選ぶように、指導された。
だから、首からかけるのなら、金メダルではなく、銀メダルじゃないといけないのだ。そういうタイプもあるってことで。
メダルをアクセサリーに例えるのは失礼だが、形状的には似ているってことで。