嫌いな理由

内田樹先生の著書が好きだ。
教え子でもないのに、先生、と呼びたくなる方である。
先生が繰りかえし、訴えている、現代の、日本の教育に染み込む、市場原理、消費者マインド。その恐ろしさ。
などと単語をつらねてみても、伝わらないだろう。
私のつたない咀嚼で、ざっと説明すると。
たとえば、今のこどもは、クラスの中で5位以内の成績をとるためには、どうすればよいと考えるか。
それは、100点を目指して、勉強することではない。
目標は、100点に近い得点をとることではなく、この集団の中で上から5位以内に入ること。
それならば、他のやつらをつぶせばいい。他のやつらを勉強どころではない状態に追い込み、成績を下げればいい。
そうすれば、100点よりかなり下の点数でも、5位以内に入ることができる。
最小の努力で、最大の効果を得ることができるものが、賢い。
この考え方が蔓延していくと、結果的にどうなるか。
その集団全体の、学力が低下していくのである。
内田先生は、大津のいじめ事件についても、自身のブログで言及している。
以下は、ブログ「内田樹の研究室」の「いじめについて」からの、引用。

引用開始〜
「私の見るところ、「いじめ」というのは教育の失敗ではなく、むしろ教育の成果です。
子供たちがお互いの成長を相互に支援しあうというマインドをもつことを、学校教育はもう求めていません。
むしろ、子供たちを競争させ、能力に応じて、格付けを行い、高い評点を得た子供には報償を与え、低い評点をつけられた子供には罰を与えるという「人参と鞭」戦略を無批判に採用してる。
であれば、子供たちにとって級友たちは潜在的には「敵」です。
同学齢集団の中での相対的な優劣が、成績評価でも、進学でも、就職でも、すべての競争にかかわってくるわけですから。
だから、子供たちが学校において、級友たちの成熟や能力の開花を阻害するようにふるまうのは実はきわめて合理的なことなのです。
周囲の子供たちが無能であり、無気力であり、学習意欲もない状態であることは、相対的な優劣を競う限り、自分にとっては「よいこと」だからです。
そのために、いまの子供たちはさまざまな工夫を凝らしています。「いじめ」もそこから導き出された当然の事態です。」
〜引用終了

これ、教育に限ったことではないな、と、突然今日、思い当たった。
同じ勤務先で働きつづけていると、「嫌いな人物」というのが、いくらでも出てくる。
嫌いな理由は、それぞれなんだけど。
そのうちの、あるひとりの人物のことが、ずうっと、なぜ嫌いなのかが、内田先生の記事にリンクして、突如明らかになった。

能力があって、向上心があって、積極的に、上司に意見や提案を訴えてくる部下。
自分にとって、将来、脅威となる部下。
彼らを、どんどん、引きとり手的部署に異動させて、自分のシマから追い出すことを繰り返してきた、人物である。
定年まであと二年という今年、その人は、部長になることができた。
所属員数人の部署の長だけれど、仕事上の能力において、自分の脅威となる部下はいないから、定年まで彼の地位は安泰だ。
これ、ある集団内で、自分が上位に立ちたければ、自分の能力を向上させる必要はなく、他の奴等をつぶせばいい、という発想と同じ気がする。
能力もやる気もある、若手社員のエネルギーと、可能性を抑制する行為によって、「会社の力」は、向上ではなく、低下する。
でも、ひとりの自己利益は、守られる。
だからその人のことを、嫌いだったんだ、私。

ただ、たまたま私が関わった人間の範囲にその人物がいた、というだけで、似たような人物が、似たようなことを、似たような発想で、日本の会社内で行っていることは、ありうるんだろう。
内田樹先生の著書、いいですよ。
もし一冊も読んだことがない場合は、文庫になっている「下流志向」が、おすすめです。