ノーカラーツイードジャケットとの戦い

毎年、毎年、美しさがレベルアップしていくような気がする。
カラフルなノーカラーツイードジャケットの、ツイード生地って、なぜあんなにも美しいのだろう?
花柄のような具体的な模様があるわけでもない、幾何学的な文様が織り込まれているわけでもない。
曖昧で不規則。さまざまな微妙な色合いが混ぜ込まれて、トータルで美しい布地が完成する。
美術の世界では、日本人は、洋画といえば印象派が好み、印象派展をかければ、大入りは間違いなし、という雰囲気がある。
韓国の場合、洋画の人気ジャンルは、もっと後、現代美術のカテゴリに属するものなんだそうだ。
その理由は、日本も韓国も「初めて洋画に出会ったとき」の、最新美術に該当するから、ではないかという説がある。
最初に見たもの、の、刷り込みですね、いわば。
私も、なぜか印象派の絵画は、子供の頃から好きだけど、これも、日本で開催されていた展覧会とか、親の好みとか、いわば刷り込みによる作用が働いているのかもしれない。
ふと思ったのだ。
印象派の絵画の筆触って、なんかノーカラーツイードジャケットの生地っぽくないか?
例えば、モネの雪解け道、水面、空、霧、光、空気。
さまざまな色味でつくられた、「かたちのないもの」の、肌理。
印象派好きにとっては、水面や雪解け道の地面のような、曖昧で複雑で美しい色味のツイード生地の肌理が、好みにヒットするのではないか。
しかし、ジャケットは、絵画と違って、鑑賞するものではなく、着るものだ。
着るものとして、考えると、結論として、私にはNGの服である。
ノーカラーより、テーラード、複雑な色合いのツイードより、シンプルでクラシックなツイードか、無地が、私の服。
しかし、毎年毎年、なんて綺麗なんだろう、とうっとりするカラフルツイードのパレードが、目の前に繰り広げられると、一着くらい探してみようかな、と心がよろめく。
折りしも、秋ツイードのシーズンが始まっている。
洋服が、店舗に最も豊富に揃うのは、3月と9月だそうである。
それを反映するかのように、8月中に発売された海外ファッション誌は、通常と比べて、極端に分厚い。
ヴォーグなんて、重すぎて手に持ったまま読めないって。
そして、今は9月である。
ついついウィンドウショッピングに、さまよってしまった昨日。
この欲望と戦うための武器に、偶然出会う。
TSUTAYA書店に入ったとき、以前ブログで触れたことのある「The Little Black Jacket: CHANEL's classic revisited by Karl Lagerfeld and Carine Roitfeld(リトル ブラック ジャケット:カール ラガーフェルドとカリーヌ ロワトフェルドによる、シャネルのクラシックの再考)」展の写真集を発見。
そもそも、女性用のノーカラーツイードジャケットの発明者は、シャネルである。
各界で、存在感を持つセレブたちがモデルとなり、シャネルのアイコン、リトル・ブラックジャケットを着こなした写真集。
巨大で分厚い、モノクロの写真集。
こんなに点数が、モデルがいたのか、と嘆息しながら、立ち見させてもらう。
同一の、ブラックジャケットをコーディネートしたと思っていたら、モデルによって、丈が短い、別のデザインのブラックジャケットをコーデしている場合もある。
蒼井優が、帯を巻かれたコーデなのは知っていたが、中国からのモデル、チャン・ツィイーが、人民服、人民帽の上にブラックジャケットを羽織るコーデを施されていたのには、びっくり。
カールラガーフェルドが抱く、中国服飾文化のイメージって、人民服なの?
あの美しくて魅惑的なチャイナドレスがあるのに。なんか意地悪だな。
チャン・ツィイーも、あまりいい顔をしていない。なんで私、こんなコーデをされちゃうの?って、やや不愉快気味な表情。
いや、シャネルのデザイナーが、中国の服飾文化を知らないはずがない。
美しいチャイナドレスではなく、人民服にコーデしたのは、ちゃんと策略がある。
カールラガーフェルドは、中国人の国際派女優、チャン・ツィイーに、ブラックジャケットを羽織らせたかったのではなく、中国国家そのもの、に羽織らせたかったのだ。
シャネルのファッションは、中国国家さえも、覆う力を持つ。
チャンツィイーに笑顔ではなく、不愉快な表情をさせたのも、なんかわかる気がする。
中国は(まだ)シャネルジャケットに覆われることに、納得していないし、不愉快なのである。
立ち見のくせして、写真集をたっぷり堪能していると、気がつく。
私、ジャケットも、コーデの技術も見ていない。
目に入ってくるのは、モデルの人そのもの、オーラ、存在感。
それに、ブラックジャケットとモデルという媒体に託された、作り手のメッセージ。
自分が何を伝えたいかを示すことが、ファッョンなら、これこそファッションだ。
主役はジャケットではなく、人そのもの、またはその奥にある、もっと深いもの。
その服を凌駕する力を持つなら、着てもいい。
そうでなければ、服を見せるカタログになるだけだ。
たぶん私が、自分には似合わない、美しいカラフルツイードジャケットを着ても、ジャケットが美しいだけで、私はぜんぜん美しくないだろう。
知人がほめるのも、ジャケットの美しさだろう。
戦いは終わった。だいじょうぶ、もう欲しくない。
もしも、10年後に、再び「The Little Black Jacket 2022」なんて写真展が催されたら、再びチャンツィイーに、コーデしてほしい。
たぶんそのときは、コーデの内容も、モデルの表情も、大きく異なるはずだ。