元気の出る美術館

今週のお題「私の『芸術の秋』」
ハコはエコではない。
しかし、ハコは大事だ。
美術館の場合は、そう思う。
このハコ(美術館)、好き、と決めると、中身(一時的な展示内容)は、関係なくなるのである。
常設展示を備えている美術館は、もちろんそれが魅力の一部になっているんだけど、これからあげる美術館のうち、ひとつは、常設展示を持たない。
しかし、ハコ自体が美術品だったりする。
今、どんな展覧会がかかっているかは、気にしなくていい。
そこに足を運べば、元気になる美術館は、4つある。
私の経験範囲と行動範囲に限られるため、場所は全部都内である。
加えて、私の好みで、ひとつを除いて、こじんまりした美術館ばかりである。
そのひとつも、美術館自体は巨大でも、お勧めの部分はその一部の、こじんまりした限定エリアである。
その1:ブリジストン美術館
丁寧な、美術館。
丁寧な仕事を感じさせる美術館だと思う。
展示スペースは、すべてフラットなワンフロアの構造である。
1Fで受付をしたら、エレベーターで2Fにあがる。
その2Fが、展示スペースのすべて。
小分けにされた部屋で構成されている。
これ、鑑賞者の体力的な負担を減らす、配慮された構造だ。
狭い階段をあがったり、さがったり、迷ったりということがない。
常設展示のコレクションは、印象派の名作と、青木繫の傑作が多い。
それらコレクションを加える際の、丁寧な選択ぶりも伺える。
たとえばピカソだったら、ノートのきれっぱしに描きちらされたようなものでも、とにかく買わせていただきます、という姿勢ではなく、巨匠の作品の中でも、とびきり良い作品を値がはっても、選んでコレクションしている気がする。
むき出しではなく、ガラスつきの額に収まったセザンヌの作品があって、そのガラスは、鑑賞者の写りこみがほぼない、特注の、特殊なガラスなんだそうだ。
この美術館のコレクションである、青木繫の最も有名な作品「海の幸」が展示されていたときは、額縁に魚が掘り込まれたデザインだったのが、嬉しかった。
丁寧な仕事ぶりを見せてもらいました、という気持ちになる美術館。
その2:原美術館
現代美術は、わけがわからない。
でも、わけがわからなくても、面白い。
理解しようとしなくても、脳の使っていない筋肉を刺激されるような、力がある。
それを教えてくれる、現代美術専門の美術館。
館内の各所、庭内の各所に設置された、現代美術のパーマネントコレクションに、出会っていく楽しさ。
企画ものの展覧会も行われているけれど、このパーマネントコレクションだけで、じゅうぶん面白い。
奈良美智の「ドローイングルーム」は、見逃してしまいそうな奥まったところに入り口があるが、初めてこの「ドローイングルーム」に出会ったとき、私はそのあまりのキュートさと、魅力に、20分間立ち尽くした。(幸い他のお客がこなかったので、独占状態)
その3:東京都庭園美術館
ハコ自体が芸術品。
外から見たら、シンプルすぎる、アールデコの館。
しかし、館内に入ると、天井に、壁に、床に、扉に、階段に、随所に施された華麗なアールデコの装飾に圧倒される。
扉にはめ込まれたガラスにも、アールデコのガラス彫刻が施され、通風孔の鉄製の蓋にまで、アールデコの美しいツタ模様が彫刻されている。
このアールデコの美が完璧にして、確立されているので、企画展示で、どんな美術品が邸内に展示されようと、館は動じないし、負けないんだなあ。
自身が圧倒的な美をもっているから、他のどんな美が侵入しようとも、受け入れてくれる余裕と包容力がある館。
もともとは、皇族の朝香宮邸。
邸内には、バスルームもあるのだが、このバスルーム内に展示品が飾られたこともある。
(マリーローランサン展で、目撃。バスルームに展示されるなんて、ローランサンもびっくりだろうな)
この庭園美術館で、初めて、現代美術展が催されたことがあった。
2009年4月〜7月に開催された「ステッチ・バイ・ステッチ 針と糸で描くわたし」。
このアールデコの館は、現代美術さえも、受け入れたのだ。
数々の、現代美術品で飾られた館は、大胆で生き生きした美しさに溢れていて、なんだか館も嬉しそうだった。
美しいけれどコンサバでクラシックな服ばかり着ていた高貴な女性が、モードな最新ファッションを着ることができたような、嬉しさと輝き。
このとき、ふだんは室内に入ることができず、入り口から垣間見るしかない、「朝香宮殿下の書斎」をも、参加アーティストのひとり、秋山さやかの仕事場というテーマで、書斎自体が、たくさんの、カラフルな毛糸玉やペーパーに、無邪気に色とりどりに取り散らかされ、埋め尽くされ、展示品のひとつに変身していたのが、驚きだった。
過去のどんな展覧会でも、展示スペースにはならなかったと思われる聖域的な書斎を、現代美術の大胆さと無邪気さに、まあ、しょうがないね、と笑って許したか。
この美術館、大人だ。
その4:国立西洋美術館の前庭
国立西洋美術館は、巨大である。
常設展示コーナーに入ると、とうぶんは出てこられない、展示品の多さである。
その美術館内に入らなくても、前庭だけで、良いものを味わえ、元気になれる。
前庭には、ロダンの彫刻が三作品ある。
考える人。カレーの市民地獄の門
「考える人」というタイトルは、ロダンによって名づけられたものではなく、死後に別人に名づけられたらしい。
ロダン自身が像につけたタイトルは「詩人」だったそうだ。
でも、この像の、内側へのこもり感、重たさは、「詩人」より「考える人」のほうが、ずっとふさわしい。
「詩人」には、なんらかの浮遊感、軽さが必要な気がする。
それは、ロダンには出せなくても、弟子であり愛人だったカミーユ・クローデルが持っていたもの。
カミーユなら、詩人というタイトルで、すばらしい像が彫れただろうと思う。
カレーの市民は、鑑賞者と同じ高さに像が展示されるように、とロダンの指示があるが、ここでは高い台座で展示されている。
六体の集団像、というだけで、迫力があるし、異なる所作の像の、とりあわせが、ダイナミックな動きを生んでいるのだよね。
もしかしたら将来、メンテナンスかなにかのときに、ロダンの指示通りの高さに飾られることが、あるかもしれない。
地獄の門、は壮大な作品であることは、誰が見ても明らかなのだけど、私が好きなのは、地獄の門の両脇に立つ、アダム像とイブ像である。
とくにイブ。それも、イブの背中である。
私は高校生の頃、美術の授業で、彫刻像を鑑賞するときは、可能な限り、その像の周囲をまわって、全角度から鑑賞するように、と教わったことをずっと守っている。
日本人の場合、たとえば仏像だと、後姿を見に行くことも、そもそも後姿を見させる発想をもって鎮座させているわけでもないので、その感覚でいくと、彫刻像を鑑賞するときも、わざわざ後姿を見に行く人は、少ないかもしれない。
でもね。
イブの背中はいいですよ。
おそらく、このアダム像とイブ像は、エデンを追放されて、楽園の外へと歩き出していくシーンのポーズを彫りだしたもの。
背を丸め、両腕で自分の身体を抱いて、うつむいて歩き出していくイブの、背中の哀しさと心細さ。
その背中を目にしたとき、気がつくだろう。
「楽園を追放されていくイブの背中」を、目にしていたものは、ひとりしかいない。
そのひとりの、視線を体験させられてしまう、すごい像なのだよ。
たしか、イブ像のモデルは、ロダンが想定したわけではなく、ちょうど妊娠中で、そのせいかこのイブ像のおなかも、少し膨らんでいる感じがある。
よけいに、エデン追放のドラマにふさわしくなっている気がする。
ちなみに、この前庭部分は、入場料フリー。
この4つの美術館のうち、ひとつでも足を運べば、じゅうぶんに、芸術の秋を堪能できるはず。