走れメロス、太宰、村上春樹

白状する。
太宰治の「走れメロス」を、初めて読んだのは、半年前だった。
なんで太宰を読んでみようかと思ったというと、それは内田樹が、ことあるごとに太宰治を褒めているからである。
ちなみに内田樹が、太宰の系列に連なる書き手として褒めているのが、村上春樹である。
倍音的な文体」を書くことができる作家は、太宰治村上春樹だけであると。
倍音的な文体」とは・・・以下、内田樹の著書「最終講義」からの引用。
「書いている作家のなかに、複数の人格が同時的に存在していて、彼らが同時に語っている。
作家がひとつの言葉を書いたとき、その一語を、年齢も性別や気質も違うさまざまな人たちが、多様な声質で、多様なリズムで、多様な音色で、微妙にテンポがずれながら同時に発声する。
そういう文章からは、倍音が立ち上がる。・・・・・「倍音的な文体」で書かれた文章を読んだ読者は、そこに自分だけに宛てられたメッセージを受信することになる。
倍音が聞こえると、僕たちはそこに自分がいちばん聴きたかった当の言葉を読み出してしまう。だから太宰治がすぐ自分の傍らにいるように思えるのは当たり前なんです。
だって、自分で自分の声を聴いているんですから。」
などなど。
ふうん、そこまで褒めるのなら、太宰、読んでみよう、と思った私は、本代さえ惜しみ、まずは青空文庫へ。
青空文庫は、版権の切れた作家の作品を、ボランティアが入力して、ウェブ上で公開しているもの。
太宰治のものは、ほぼ全作品そろっている。
本代をけちって、青空文庫で、初めて「走れメロス」と出会ったら、何が起こったか。
私は「走れメロス」と「横書き」で出会ったのである。
読み進めながら、気づいた。
あ、メロスって、縦書きより横書きのほうが似合う。
「走る」という動作は、上から下へ、という縦書きの動きより、横書きの平行移動のほうが、なじむから。
メロスって、走るとき以外でも、常になんらかの「移動」をしている人物なのだ。
移動をしていないときでも、身体が動く。
「激怒」とか「のそのそ」とか「地団太を踏んだ」とか「えいえいと声をあげて」とか、身体のどこかが動いている。
身体が動いていなくても、文章自体が動く。
ひとつひとつの文体が短くて、走るときの、呼吸、息遣いを連想させるようで、その文章の感じは、決して静止しない、常に、鼓動している感じ。
鼓動が脈打つ身体(文体)をもった、短編小説。
文章も、メロスとともに走っていく。
メロスの中に登場する、「会話」は、エンジンである。
妙に切迫感があり、向き合う相手を煽るような会話が繰り出されると、ああエンジンがかかってるなーって感じ。
メロスがたどりついた故郷は、いわばピットイン。
だから、ピットイン(故郷)にいるあいだは「  」で囲まれた会話は登場しない。
メロス自身の台詞が「 」で登場しても、それに向き合い、あおる対話者の「 」に入った台詞は登場しない。
だって「会話」はエンジンだもの。ピットインにはいっているときにエンジンをかける必要はない。
補給をして休んだら、またレース再開。
ちょっと気がゆるんで、減速したり、加速したり、変速したり、危機に見舞われてブレーキがかかったり、危うく事故を起こしかけたり。
ゴール間近で、唐突に登場する「メロスの友人セリヌンティウスの弟子」は、メロスに「会話」を注入するために、登場したのだと思う。
ラストスパートだから、エンジン(会話)が必要だったのだ。
このラストスパート、死力をつくして走るメロスの描写は、恥も社会も見得も文化も企みも、どんどんかなぐり捨てていき、純粋で原始的でシンプルな、人間の原形に急速に近づいていくようでもあり、なんか、感動するのだ。
「メロスは激怒した。」で始まる物語は、「勇者は、ひどく赤面した。」で終わる。
最後のワンセンテンスで、メロスは、メロスではなく「勇者」に変身する。一度死んで、生まれ変わるようなイメージ。
しかし、物語に合わせて文体の身体つきや鼓動のリズムをも変えてくる、この技は、作家なら誰でもここまでできる、というものではないと思うし、太宰は苦しんでその文体を編み出すというより、ここで使う文体はこんな身体つきで書くのが当然でしょ、って感じで、もしかして普通に、自然につづっているじゃないか、と思わせるのが凄い。
メロスって小説だけど、音楽みたい。
頭より、身体の感覚で味わいたい。
そのメロスの身体感覚に、横書きはぴったり。
横書きのメロスと最初に出会えて、良かった。ウエブの時代ならではである。ありがとう青空文庫
ちなみに、ある人物の切迫した独白がえんえんと続く、太宰の短編「駆け込み訴え」は、縦書きのほうが似合う。
立て板に水を流すような喋り、という感覚だから。
内田樹は、太宰治は「憑依系の文学者」とも指摘している。他者に憑依することが非常にうまいと。
確かに、太宰には、女性や少女に憑依して語るなんて序の口で、ロンドン動物園の猿の語り、なんていう短編もあった。
まだ読んだことがないけれど、他人の日記にほんの少し手を加えただけで、作品にしてしまったものもあるとのこと。
憑依してしまえるから、そんな技がこなせるんだそうである。
それって、既存の楽曲をアレンジするような感覚にも思え、ますます音楽的だ。
太宰の前に、青空文庫があったら、大変な事態になっていたと想像する。
名だたる文豪の多々の作品が、コピー&ペーストで自在にアレンジできる状態だよ。
あっというまに、さまざまな作家に憑依し、どんどん別作品をつくりあげてしまうだろう、という気がする。
内田樹は、「おそらく太宰治がもう少し長生きしていれば、ノーベル文学賞をもらっていただろうと思う。太宰治こそは、日本文学有数の倍音的文章の書き手であったから」と、「最終講義」内で指摘。
当然、「太宰治に連なる倍音的な書き手」村上春樹ノーベル文学賞をとることも、期待している。
ノーベル文学賞をとったときのコメント原稿も、村上春樹が候補になるたびに何回も書いてきたとのことだ。(受賞してから書いていたら遅いから、たいてい事前に依頼があって書いておくんだそうだ)
きっと、今回も、すでに、書き上げているのだろう。
・・・・コメント、使われるといいなあ。