ソフィアのジャケット

ジャケットを着ないことは、可能だろうか?
最近、そう思っている理由は、ソフィア・コッポラが、ジャケットをめったに着用しないからである。
多くの、おしゃれのプロ、業界内の人々に、真におしゃれな人物、と評価されているのは、ジェーン・バーキンと、ソフィア・コッポラだそうである。
なぜ、このふたりなんだろう? ケイト・モスでも、ビクトリア・ベッカムでもなく。
どちらかといえば、年齢の点でも、着こなしの点でも、ソフィアのほうに惹かれたので、彼女の服装を、雑誌やネットでウォッチングしてみた。
あまりにシンプル(ぱっと見で、地味、という印象さえ受ける)なので、その度胸に驚いた。
基本、薄化粧。
髪型もほぼ一定している。
靴のデザインもほぼ一定。飾りがない黒のアンクルストラップや、フラットなシューズ。
アクセサリーは、大きさの点でも数量の点でも、最小限。ブレスレットだけとか、小さな石のペンダントだけとか。
服の色。黒かネイビーか白が、8割を占める。
襟元の形も、ほぼ同じ。(シャツかクルーネックかボートネック)
服装の構成アイテム数が、少ない。
トップス1点(シャツか、ブラウスか、ニットか、カットソー)とパンツ。
あるいは、ワンピース。(パーティドレスも含む)
これらに合わせるアウターは、ジャケットではなく、いきなりコートになる。
ソフィアがジャケットを着た写真は、十年以上前の来日時の写真と、シャネルのリトルブラックジャケットの写真集内の、二点しか発見していない。
とにかくシンプル、あらゆる点で、ミニマムなのである。
もしかして、これは彼女の戦略かもしれない、とも思った。
美女がひしめく映画界とファッション界と芸能界を、幼い頃から見聞し、自らもその世界の中で生きる彼女は、女の美しさにおいて、上には上がいるということを熟知していることだろう。
きらびやかな衣装に身を包み、その美を競いあう女たちの中に、埋もれもせず、劣りもしない方法。
それは、彼女たちとは、競わないファッションをすること、別種の美学を貫くことだ。
きらびやかで高価な服やバッグや宝石を、ほぼ自分の望む通りに手に入れる財力は十分に持っているはずのソフィアが、ここまで自分を制したファッションを貫く。
おしゃれとは、虚栄心がないこと。
ソフィアの着こなしを見ていると、そう思うのだ。
装いによって、集団の中で目立つこと、他者を圧する力を持つこと。
そのような虚栄の要素を、どこまで省けるか。
それから、ソフィアがジャケットをめったに着ないもうひとつの理由は、ジャケットのデザインが、流行が如実に現れるものだからかもしれないとも思う。
ほんの少しでも、流行に遅延した気配を感じさせないよう、細心の注意を払っているのではないだろうか。
ボーイフレンドジャケットを自己ベストな定番アイテムとするミランダ・カーほどには、特定のジャケットが恐ろしく似合うという人でも、ないだろうし、それならばいっそ、ジャケットそのものを避ける選択をとっているのかもしれない。
ちなみに、ジェーン・バーキンソフィア・コッポラの共通点のひとつは、自分でデザインしたアイコンバッグがあることだ。
ジェーンは、言わずと知れたエルメスバーキンバッグ。
ソフィアは、ルイ・ヴィトンのSCバッグ。
このSCバッグ、ただいまセレブの間で大人気らしく、ミランダ・カーも、ケイト・モスも、色違いで複数所有しているようす。
ところがソフィア自身は、一色(コバルト色という名のネイビー系)のバッグしか持ち歩いていないようすなのが、またソフィアらしい。
日本価格にして約37万円というSCバッグを、私が所有する日は来るはずもないが、あるとき、あ、これ、SCバッグにデザインが似ている、と思ったバッグがある。
それは地下鉄の駅、上りのエスカレーターで、私の前に立つ女子高校生が持っていた、スクールバッグ、ネイビーのボストンバッグが目に入ったときだった。
もしかして、SCバッグのデザインの源流は、女学生なのかも。
SCって、「ソフィアコッポラ」バッグならぬ、「スクール」バッグなのかも。
ソフィアの着こなしも、トラッドで自制した感じに、女学生っぽいところがある。
英語だと「制服」は「スクール・ユニフォーム」で、「学校の軍服」っぽい語感だ。
日本語の「制服」のほうが、ソフィアには似合うなあ。
「ユニフォーム」だと、個を殺して総体の一部になる、というイメージだけど、「制服」だと、自分を制する服、という自己コントロールのイメージが湧く。
ソフィアって、私、校則はちゃんと守るけど、制服のジャケットは、冬でも着ない主義だもんね、というおしゃれ美学を持った、優等生だけど個性的な女学生みたいだ。
今後も、ソフィアの服装ウォッチングは続ける予定。
オードリー・ヘップバーンなみに、学ぶもの、得るものが多そうなのが、彼女という気がする。