アウトレイジ ビヨンド

見終わったときに浮かんだ言葉は、「シェイクスピア」だった。
シェイクスピアの群像劇を見たような気分になる、映画。
ある世界の、権力を巡る、策謀、争い、暴力、裏切り、殺人、さまざまな人間が、織り成して進んでいく、物語のかたち。
北野たけしは、シェイクスピアがとても似合う監督なのではないだろうか。
コスチュームプレイはもちろん、現代の舞台にも移植されて、世界中でくりかえし語られている、シェイクスピアの数々の悲劇、喜劇、群像劇、愛憎劇。
黒澤明が、「リア王」を「乱」に仕立て上げたように、北野たけしも、自分の得意なフレームに、シェイクスピアを移植できるだろうと確信する。
そのフレームのひとつが、ヤクザなのかもしれない。
たけし演じる大友は、この映画の「狂言回し」だ。
前作の「アウトレイジ」で、下層のヤクザの組長という地位も、恋人も、舎弟も、すべて失った大友は、続編となるこの映画では当然、身一つの状態だ。
前作で登場した大友組は、がらんとした殺風景な室内に、ソファと、金庫と、配下の男たちだけが存在する。(だからこそ、男たちの姿が際だつ。)
その大友組の姿に、大友が自分の持てるものすべてを注ぎ込んできた対象は、この男たちであり、大友の資産といえるものもまた、この男たちだけなのだ、とわかる。
今度は、唯一の資産だった、この組員の男たちさえ、大友は持たない。
(濃く、誠実な絆の、わずかな知人はいるが。)
住処も、仮住まいらしい。そのせいなのか、大友は、しょっちゅう姿をくらます。
大友を狙うヤクザたちが、必死で大友を探しているにも関わらず。
まるで大友は、敵対するヤクザから、というより、映画の画面(観客)から、姿をくらましているようにも見える。
画面(観客)に見えないところで、大友が何をしているかは謎だし、すごく気になる。
大友は、姿を見せずして、物語を牽引している。
これ、とても「狂言回し」っぽい役どころである。
大友と反対に、終始、画面に出ずっぱりなのが、警察の片岡。
この片岡、大友よりずっと画面登場時間が多いと思う。
自分の手はいっさい汚さずに、トラブルの種をまいて、他者に血を流させて、自分の利益を得ようとねらう片岡は、「トリックスター」の役どころにも、見える。
しかし、憎めない魅力も、愛され度も、まったくない、うっとうしさたっぷりのトリックスターである。
トリックスターの代表、「真夏の夜の夢」の妖精パックが、一緒にするなと怒るだろう。
片岡の画面頻出度の多さには、観客の、片岡に対するうっとうしさのカーブを高まらせていくという、監督の作意を感じてしまう。
そのうっとうしさが晴れる瞬間が、来るから。
言わば片岡は、物語全体を牽引する狂言回しを気取る、トリックスターである。
しかしトリックスターとしても出来損ないである。(と書かないと、妖精パックが怒る。)
そして、狂言回しになることも出来ない。
たとえば、脚本や漫画を書いていて、ある登場人物が、劇中人物として失格、お役ご免となった場合、作者はその人物に、どんな運命を下すだろうか?
そうなると、ラストシーンの大友の姿は、大友ではなく、作者・北野たけしが、登場しちゃったようにも見えてくる。
狂言回し・大友ではなく、狂言回し・北野たけし監督。
以上のことに気がつくのに、三日かかった。
北野たけしって、とても作家性がある人である・・・。
そんなことをしみじみ感じた、この映画。