コスパって言葉

忘年会の幹事をすることになって、ネットでお店探しにいそしんだ。
立地、価格、メニューなどに加えて、やはり口コミも参考にする。
後日、パラ読みしていた本の中で、口コミで頻出していた言葉に遭遇した。
本の名前は「日本をダメにしたB層の研究」(著者:適菜収)。
遭遇した言葉は、コスパ
コストパフォーマンス。
飲食店の口コミでは、料理もいい、雰囲気もいい、だけど、「コスパ」が良くない、と「コスパ」を最終評価基準にしているものに何度か出会った。
私はまだ、この言葉を口にしたことも、記述したこともない。この記事で初記述だ。
「日本をダメにしたB層の研究」は、ある広告会社が、国民を四つの層に分けたうちのひとつ、「B層」がテーマ。
この「B層」の価値観、評価基準のひとつに「コスパ」があるとのこと。
しかし「コスパ」の重要視は、「文化」の軽視になりかねないとも。
日本のファッション誌の、熱のこもった洋服の着まわし特集も、一着の服の「コスパ」をどこまで高めることができるか?ってことなのかもしれない。
「お得」とも「リーズナブル」とも微妙に違う「コスパ」。
この「コスパ」という価値観から、ある女性経済評論家の食生活が、どうして自分は好きになれないのかに結びつく。
日々の自炊の食事をアップしているその人のブログの中で、「たくさん食べても太らない食べものを」のようなトーンの言葉があって、なんかひっかかったのだ。
いや、別に、たくさん食べる必要はないんじゃない? 身体って少食に慣れてくるものだし、むしろ少食にしていったほうが、食料不足の地球においては、エコロジーな生物になれる気がする。
私は決して料理が得意ではないし、むしろ料理下手だと思うから、こんなことを言う資格なんてない。
けれど、その人の食事メニューを見ると、大変失礼なんだけれども、あまりにも素材感、単品感がありすぎて、どうしても「エサ...」というイメージを抱いてしまっていた。
なんでそんなふうに、思ってしまうのかなあ、なんて考えていたところ、服部みれい著「あたらしい食のABC」の冒頭に、手がこんでいなくても、豪華でなくても、下手な料理でも、愛がこもっているから、こどもにとってお母さんの料理は美味しい、とあって、あ、そうだ、愛なんだ、と気づいた。
母親がこどもの料理をつくるのではなく、自分で自分の料理をつくるわけだから、そこに成立する愛は、自分の身体に対する愛と、食材に対する愛だ。
いかにして、このかぼちゃから、最小限の労力と時間で、最大限の美味しさを引き出すことができるか?
いかにして、このかぼちゃを、たくさん食べても、太らないように(カロリーを低く)料理することができるか?
最小限の手間で、最大限の美味しさと、最小限のカロリーを。
これが、食材に対する「コスパ」なのかもしれない。優先されるのは「食文化」より「コスパ」。
その人の料理写真を見ると、「単体プレイヤー」が多くて、「チーム」になっている食材があまりないような気がする。
もしもその人が、自分が上に立つ組織をつくるとしたら、チームではなく、単体プレイヤーが、各自力を発揮していく組織になるのかもしれないなあ。
食材同士でチームにしてあげたり、カロリーは気にせず調理したり、無駄で自由で変化のある動きをさせてあげたほうが、愛を感じるような気がするんだけど、私の意見のほうがヘンかなあ?
その人の初期の著書のある一冊が、私はとても好きで、新たな価値観を発見させてもらい、実生活の上でも、参考にさせてもらったことがある。
ただ、その一冊以外に、好きな著書はない。
今思うと、その著書は、オリジナルな「仕事文化」を提案し、つくりあげた点が、素晴らしかったと思う。
料理にも「仕事文化」を持ち込む手法が、その人の料理のスタイルなのかもしれない。
適菜収の著著にあるように、「食文化」と「コスパ」は、両立は難しいのだろう。どちらかが貶められる。
「仕事文化」と「食文化」も、同じなんだと思う。