読書メモ:志賀直哉「城之崎にて・小僧の神様」

猫町倶楽部の読書会に、3回参加してみた。
事前に課題本について持った個人の感想、会で聞いたこと、それがもとになって生まれた個人の発想。
かたちを成すわけではない、意識の流れ。
それらは言わば「消えもの」である。
しかし、会の中で、交わされた言葉や発想は、参加者の中に、自覚できない、何らかの影響を与えていると思う。
人は、見たもの、聞いたもの、に、必ず何らかの影響を受けているはず。
「消えもの」文化とは、消費される文化。
消費されて、それ自体のかたちは成さなくても、消失しても、別の何かのかたちを生み出す、糧になっていくようなもの。
とはいえ、自分の中で生まれたちょっとした感想や、発想は、記しておきたい欲にかられる。
ブログも「消えもの」文化であることを自覚しつつも。
まずは、はじめての読書会の、課題本の読書メモを。
志賀直哉を読んだのは、初である。
事前に持った、自分の感想。
作者は冷静な人だなあ、と思った。
冷静で、あまり熱くなれない人が小説を書くと、こうなるのかと。
城之崎にて」は、自分の感情内には踏み込まず、他の事物の描写の連続で、作品が完成。
自分の感情を露にできない、感情的になれない性格の作家か?と思ってしまう。
小僧の神様」は、静謐でいい話のままに終わらせるのに照れがあるゆえか、リアリストゆえなのか、作者が突如最後にコメントするメタな演出で、くいっと現実に軸が戻る。
理性的な人である。小説家というより評論家っぽい。
生み出した作品のほとんどが短編なのも、理性から離れていられる時間に、限度があるからなのかもしれない。
でも、「らしくない」ジャンル(小説)で作品を生み出したからこそ、どちらかといえば感情的、叙情的な人間が多そうな、他の小説家では醸し出せない個性が生まれたのかもしれない。
比較をひとつ、ひねりだす。
太宰治は、池の水の中に自分で飛び込んで、水中の気持ちを綴る人。
志賀直哉は、自分ではない、他人に池の水の中に飛び込ませて、その様子を観察して綴る人。
そんな気がする。
さて、会に参加してみる。
作品そのものの内容というより、次第に、「直哉ってこんな人では」という話題になっていく。
SかMかでいうと、直哉はSに違いない、って感じに。
明治の文豪は、たいていM、という意見。
この濃く熱い文豪の中では、直哉はすごくさっぱりしたクールな人のように思える。
漱石もM、谷崎こそ、真性のM。
直哉が「小説の神様」と文学界で呼ばれていたならば、谷崎は「Mの神様」なのかも。
とにもかくにも、志賀直哉に会えて良かった。