読書メモ:イノベーションのジレンマ

猫町倶楽部の勉強会。
課題本がビジネス書なので、正確に言うと、読書会ではなく、勉強会になる。
そういう類のものに参加するのは初めてなので、出席前から緊張。
事前に思ったことのメモ。
イノベーションには、従来製品の改良を進める持続的技術、従来製品の価値を破壊する可能性のある、全く新しい価値を生み出す破壊的技術がある。
たとえば、銀塩フィルム(持続的)とデジタルフィルム(破壊的)。
これはコダックを破壊に追い込み、富士フィルムを存続させた。
企業には、資源・価値基準・プロセスの三要素があり、新しい商品を生み出すときは、資源(経験、技術、人員など)を使え、ただし価値基準とプロセスは忘れろ。
→私が勤務する会社の中で、新しくて小さな部署が、これに該当するような気がするので、話題にしよう。そういえば、富士フィルムアスタリフト化粧品を作り出したのも、資源(技術)が、化粧品という新しい商品にも使えるという発見からだよなあ。
ホンダがアメリカに進出しようと試みたとき、ホンダのバイクの新しい用途を見出したのは、売り手ではなく、顧客だった。
→新しい用途を見出すのが、売り手ではなく、顧客という事例で、サントリーのオールフリーが思い当たった。オールフリーは、もともとドライバーのために作られたノンアルコール飲料だったのが、売り出してみたら、顧客側が、売り手の想定外の用途を見つけていった。妊娠中の女性とか、明日、二日酔いになっていられない仕事があるけど、どうしても今夜飲みたい、という人とか、アルコールを受け付けない体質だったけど、ビールですっきりする、ってこういう感じなのが体験できる、とか。
これも話せる機会があったら、話すことにしよう。
勉強会でのメモ。
国際郵便の事業の仕事をしている人が同じグループにいて、郵便に対する破壊的技術はメール、という意見になった。
ただ、破壊的技術は持続的技術を全滅させててしまうわけでもなくて、たとえば、郵便も年賀状も、趣味的なものとして残っていくのだろうと。
郵便事業でも宅配事業でも、その精緻で迅速な仕事ぶりにはみな共感していて、日本のインフラは凄い、という話題から、宅配に対する破壊的技術って何だろう?と、考えたら、3Dプリンタじゃないか、ということに。
休憩時間明けに、ビートたけしの新書「間抜けの構造」の中に、「間とイノベーション」という章があったので、持ってきて、紹介してみた。
そこから、日本人は仕事で「間」を読むけれど、外資系ではどうなんだろう?という問いをあげたら、勤務先の社内に外国人がいる人が、外国人社員は、会議でもちゃんと「間」を読んでいる、という情報が。
「職場にいる外国人」といえば、今は中国人とのこと。
日本の会社に送り出される中国人は、上層の、上澄み部分のエリートが来ているのかと思うくらい、優秀とのことだ。
英語もできて、中国語もできて、日本語もできて、仕事もできる。
そうなると、日本人社員を雇う意味はないんじゃないかという気さえするとも。
そういえば、日本国内の縫製会社でパート職にやっと採用された日本人主婦が、その会社に入ってみたら、ほとんどが中国人で、しかも、中国の縫製のプロが、パート料金で働きにきていて、土日も進んで仕事を希望していた、という本を読んだ。
そんな状態だったら、経営者の立場からみればどうしても中国人のほうを雇いたくなるだろうなあ。
ということは、日本人労働者が持続的技術で、中国人労働者が破壊的技術なのかも!
事後のメモ
勉強会が終わってしばらくすると、「続き」のように発想が出てきた。
これ、課題本が文学だったときには現れなかった現象だ。
もしも、日本人労働者が持続的技術で、中国人労働者が破壊的技術だとすれば、そのうち、日本人労働者を選ぶことは、趣味的なこと、になる。
趣味で日本人労働者を雇う、としたら、そこで選ばれるようになっていく日本人労働者って、能力面での力も必要だけれど、なにか人間としての魅力も必要なんじゃないだろうか。
それがどんな魅力なのかは未知だけれど。
勉強会の場では思いつかなかった、持続的技術と破壊的技術の例で、「絵画と写真」を思いついた。
写真が登場するまで、絵画は、いかに本物そっくりに(つまり写真的に)事物を描き出すか、に技術がつぎこまれてきたけれど、写真が登場すると、その技術は絵画特有のものではなくなった。
しかし、それだからこそ絵画は、写真では表現できない表現法、芸術を、つくりだすことになっていく。
破壊的技術を、ステップにしてしまって、持続的技術に、新しい価値をもたらしたということになる。
他にも、思いついた例。
マドンナとピカソ
ふたりとも、生涯に渡って(マドンナは存命中だけど)、自分の活躍分野における現役のスターの地位を維持。
それは、自分の中の、持続的技術に、自分で、破壊的技術をぶつけていく人だからではないだろうか。
ピカソは自分でつくった画風を、自分で打ち破って別の画風にチェンジしていった人。
マドンナもそう。ある程度の時期を経ると、見せ方のスタイルを変えていく。
今も、「次のスタイル」に向けて、策略を練っているに違いない。