近所の書店が閉店

自宅から一番近い書店が、12月末日で閉店したことを昨日知る。
ここ一年は、この書店に限らず、とにかく書店に入ったら、できるだけ一冊は買うように、意識していた。
全国的に書店の経営は苦境にあり、一冊あたりの書店分の利益はとても薄いそうだから。
かつて、私は、映画館で見る映画の本数が1年で約100本、という状態が5年間ほどあった。
今では映画自体に興味が薄れているので、せいぜい年間10本くらいである。
映画館も苦境にあるとは思うが、そちらの補助は申し訳ないけれど今は許してもらうことにして、見なくなった映画代を本代にあてていると思うことにしている。
人間が行動するのには、必ず理由がある。
私が、「書店に入店したら必ず買う」行為を意識しだした、きっかけ。
それは、六本木ヒルズのけやき坂にある、ツタヤとスターバックスが合体したブックカフェで起こった。
私はこのブックカフェで、カフェ利用を試みたことはない。
なぜって、いつでも満席だからである。
カフェ利用者は、書店内の未購入の本を、購入した飲み物を飲みながら閲覧できる。
飲み物代は確実に支払われるが、本代は、支払われるとは限らない。
最新号の雑誌を、5、6冊一度に持っていくカフェ利用者を、何度も見かけたことがある。
閲覧された雑誌は、未閲覧の雑誌よりは、何らかの使用感が加えられて、売り場に戻される。
あるとき、雑誌コーナーを物色していたら、となりで携帯通話している女の子の声が聞こえてきた。
「ここ、新しい雑誌がいくらでもタダで見れてさ〜しかも飲み物つきで、って、最高じゃ〜ん」
その瞬間。
私はツタヤ書店の経営状態が、とっても心配になった。
だ、だいじょうぶかな、ここ。
このブックカフェは、けやき坂という立地といい、内装の雰囲気といい、店内を巡っているだけで、気分がはずむような、いい感じのお店なのである。
もしも経営不振でここがなくなったら、とっても寂しい。
このツタヤ書店だけじゃなくて、あの書店や、あの書店も。
というわけで、この瞬間をきっかけに、「書店に入店したら、必ず何か買う」行動を始めた。
私のささいな購入効果など、書店にとっては焼け石に水にさえ、ならないかもしれないけれど。
カフェと書店の併設は、そうすることで、お互いに売り上げ増加につながる見込みがあるから、そうしたはずだと思うけれど、書店はただ読みが増え、カフェは、ただ読みによる、飲み物一杯あたりの席占有時間が延び、というマイナス効果もあるんじゃないだろうか。
けやき坂のツタヤは、半年前くらいから、何種類かの雑誌最新号については、1冊以外は紐閉じして並べられる状態に変化した。
うん、そのくらいしても、いいと思う。
図書館だって、1種の雑誌は1冊しか置いていないよ。
ああ、そういえば図書館についても、学生が自習のため図書館の閲覧席が日々満席になる事態を、図書館学専攻の知人が怒っていたなあ。
本来図書館は、学習や自習をする場ではなく、読書をする場でさえもないんだそうだ。
そういえば、国立国会図書館では、館員は「本」ではなく「資料」と呼ぶ。
閲覧請求をすると、「資料です」と言って渡される。
読書の対象じゃないってことだ。
読書をしにくるところではなく、調べ物をしにくるところってことだ。
絶版になった本を読書しにいっていた私は、間違った使い方をしていたことになるなあ。
「本の場」というのは、なんだか特有である。
「本の場」と自分との付き合い方については、まだまだ考えていかなければならないなあと、思うのだった。