マオ的、ヨナ的

テレビで「関ジャニの仕分け」を見ていて、プロの歌い手と、そうではない歌い手(こどもも含めて)の、感動の受け方の違いってなんだろう?と、考える。
たとえば、MAY J.の歌と、歌のうまい女芸人の歌の違い。
それは、自分の凄さを伝えようとするか、歌の凄さを伝えようとするか、の差じゃないだろうか。
私、歌うまいでしょ?私って凄いでしょ? という歌い方と、
この歌、凄いでしょ? 歌に込められたメッセージ、どうか伝わって!という歌い方、の差。
自分の凄さを伝えるために歌うか、他者の凄さを伝えるために歌うか。
これが、最近読んで、面白い!と思った二冊のデザイナーの著書のうちの、一冊の内容にリンクした。
寄藤文平「絵と言葉の一研究」。
この本の中に、「マオ的/ヨナ的」 という一説がある。
マオは浅田真央のこと、ヨナはキム・ヨナのこと。
オリンピックのふたりの滑り方のスタンスは、浅田真央は、フィギュアスケートの凄さを伝えるため、キム・ヨナは、自分の凄さを伝えるため、という違いだったのではないかと。
このふたつのスタンスは、フィギュアスケートに限った話ではなく、デザインの世界にもあるとのこと。
理想で最高のデザインを目指すマオ的なスタンスと、現実のコストや顧客を意識したデザインをするヨナ的なスタンスを、どうやって両立させるかが、商業デザイナーが抱える大きなテーマであると。
ふむふむ、面白い。
MAY.Jがマオ的なスタンス、歌のうまいアマチュアが、ヨナ的なスタンスとも言えるかもしれない。
じゃ、そのふたつのスタンス、服の世界の場合はどうなるのだろう?
まず、服の凄さを伝えるために着る人。
それはプロのファッションモデルだろうなあ。
雑誌モデルではなくて、服より目立たないよう無表情でその顔の美しさを封印し、服のためのハンガーと化すステージモデルのレベル。
マオ的率100%の彼女らに比べれば、雑誌モデルや東京ガールズコレクションのモデルは、服の凄さに加えて、自分の凄さ(美しさ・可愛さ)を伝えようとするヨナ的配分が、入っているように見える。
なんだか、プロ度とマオ的率は比例する気がするなあ。
じゃ、素人となったら、どうなるんだろう?
プロの対極なのだから、ヨナ的率100%ってことになる。
シャネルの服を着る素人は、シャネルの服の凄さを伝えるためではなくて、自分の凄さを伝えたくて着ているはずだ。
シャネルの服を買える財力、シャネルの服を選ぶセンス、を伝えたくて着る。
でも、真におしゃれと言われるふたり、ソフィア・コッポラジェーン・バーキンって、そうだろうか?
ちなみに私は、どうしてこのふたりが真におしゃれとされているのかという理由そのものをまだ思索中だ。
ふたりとも、自分の凄さを伝えるために着る、という印象は受けない。
そう、ここから「の凄さ」を取り外して。
・・・・・・。
自分を伝えるために着る。
そんな気がする。
おしゃれであるって、そういうことなのかもしれない。
イメージコンサルティングの先生が教えてくれるものは、「自分の良さを伝える着方」だと思う。
自分の良さを伝えるために着るというスタンスは、知恵が必要で、悩みも楽しさもある。
「ヨナ的」をもっと緩和させたようなスタンスかもしれない。
でも、ここから「の良さ」さえもとりはらって、ただ「自分」を伝えるために着るって。
それって「自分」が、どうであるかにかかってくる。
「自分」が未完成な、こどもには無理だ。一朝一夕にはいかない。
もしかして、すごく難しくて高尚な着方じゃないだろうか。
おしゃれって、そういうことなのだろうか?
思索は、まだまだ続きそうである。