立つ洋服、座る和服

洋服は、立体造形の美である。
和服には、造形デザインは全くない。
これは、長沢節の著書「大人の女が美しい」の中で出会った、洋服と和服に関する新鮮な指摘。
洋服は、Aラインやキューブやコクーンなど、人間の肉体の線からは離して、その上にもうひとつの立体の造形をつくる。
だから、服のシルエットが主役。
その中に入る人間の身体は、細ければ細いほど望ましい。
どんな造形の鎧にも、そのシルエットを乱すことなく、すぽっと身体を収めることができるから。
和服は、一枚の布を、太った人にも痩せた人にも、身体にじかに巻きつけて着る。
その人なりの身体に沿ったシルエットを、着物がつくりだす。
洋服は、立ち姿のほうが、その造形美を崩さない。
立食パーティ、という形式は、もしかしたら、洋服を見せるのにふさわしい、立ち姿でいることができるからなのかも。
対して、着物は、その人の身体のかたちが、シルエットそのものになるのだから、人間の身体の動きがあって初めて、ダイナミックな造形が生まれてくる、とのこと。
(ええっ、着物って、てっきり動きにくい服の代表かと思っていた。)
袖がだらんとたれた状態の、立ち姿の着物の元気のなさに比べ、正座をしたとたんに、着物全体の造形美が出現する。
洋服とは反対に、着物は立ち姿より座り姿が美しい服、なんだそうだ。
着物が窮屈な服ではなく、着る人の身体のシルエットをつくりだす服であるならば。
「つかず、はなれず」な服の最たるもののひとつは、サブリナルック、と前回の記事で書いたが、着物だって、そうだ。
イメージコンサルティングの先生が、全タイプで、着物が最も似合うのがグレースタイプだと言っていた理由がわかる。
長い丈のスカートの場合は、歩けないくらい細身のマキシタイトを勧められたくらいだ。
それって、ボトムが着物状態ってことに等しいのではないだろうか??
そこで再び、オードリー・ヘプバーンの装いに思い当たる。
ティファニーで朝食を」の冒頭シーンに登場する、有名なジパンシィの黒いドレス。
身体のシルエットに沿った、細身でタイトなロング丈のスカート。
以前映画製作の裏話の本で読んだのだが、あのドレスは、スカート部分があまりに細身で、歩くことができず、ドレスを見せることに重点を置くシーン用の、ほぼ歩くことができない状態のバージョンと、歩行するシーン用に、歩くことが可能な状態にしたバージョンと、別々のドレスを用意して、シーンに合わせて着替えて撮影したんだって。
あれこそ、オードリーとジパンシィが作り上げた、西洋のキモノドレスだったのだ、きっと。
考えてみれば、中国のチャイナドレス、ベトナムアオザイ、インドのサリーなど、アジアの服装は、和服と同様に、服そのものの造形シルエットを見せるのではなく、着る人の身体のシルエットを、包むものが多い気がする。
風呂敷だって、「包む文化」のひとつであるし、日本にとって、アジアにとって、服は身体を包むもの、西洋にとって、服は身体に着る鎧、といったところか。
いやいや、そういえば、日本にも鎧はある。
武士が戦時に着用の、さまざまなデザインや意匠をこらしたものが。
戦では、自分の身体を見せてはいけないから、身体の上に別の造形をする必要があったってことだ。
日常着が洋服となっている私たちは、「鎧としての服」のほうが必要な日常に、世界に、時代に生きているってことなのかもしれない。