未完成の服

つながる読書って、あると思う。
ある本を読んだら、その本に関連して、別の本を読んで、そこからまた別の本を読んで…という感じに。
それは、自分の意志でつなげていく読書。
また、無作為に選んで読んだ本が、別の本の内容と偶然つながる、という読書もある。
私は読書家ではないので、後者に遭遇することのほうが多い。
三回前の記事に書いた、長沢節の著書「大人の女が美しい」。
今日、六本木ライブラリーで、書架からピックアップして、閲覧した二冊の本。
「PEN+ コム デ ギャルソンのすべて」と、「AKB48の戦略! 秋元康の仕事術」。 
それら三冊の本が、つながった。
ちなみに、私はコム デ ギャルソンを1アイテムも所有したことがない。
そんな私が、「PEN+」で、デザイナー川久保玲のくりひろげる、華麗なコムデギャルソンの歴史と、特に注目すべき過去の発表作の解説を、興味しんしんで読んでいたら。
突如、もしかして、川久保玲って・・・と、思い当たったことがある。
紹介されていた、ギャルソンの今までの注目すべきショーのテーマ、その詩的なタイトルは、以下のようなもの。
「二次元」
「男でも女でもない」
「ボロルック」
リリス
「ボディ ミーツ ドレス ドレス ミーツ ボディ」
「デザインしない強さ」
「失われた帝国」
「プアキング」
服が生命体のようにデザインされていたり、ヨーロッパの権威や男女差(ジェンダー)が破壊されていたりする、でも美しい服たち。
思い当たったのは、長沢節の、「洋服は立体造形、和服には造形がない」という指摘。
川久保玲のデザインは、洋服の最大ルール「立体造形であること」に絶対従わない、という姿勢を貫いているんじゃないだろうか。
服の形が主体の三次元の服(洋服)を、身体の形が主体の二次元の服(和服)、の軸にシフトさせているような。
それは、まるで、毎回のショーで、東洋文化から西洋文化へ、挑戦、挑発、勝負を挑んでいるよう。
なんて強い人なんだ。
そこへさらに、直前にざっと読んだばかりの「AKB48の戦略! 秋元康の仕事術」の中の、印象的なふたつのセンテンスがつながる。
ひとつは「ヒットするコンテンツは、何につけても深読みされ、その深読みがどんどん加速していく」というもの。
コムデギャルソンの作品は、ヨーロッパのファッションインサイダーが、ついつい深読みしたくなるような、謎と魅力に満ちたコンテンツなんだと思う。
もうひとつは「完成された女の子はAKBのオーディションで落とす。未完成の女の子をファンが育てていくから」。
このセンテンスから、川久保玲が「洋服の立体造形」を崩すスタンスであるとしたら、それはつまり、立体造形が完成していない、「未完成の洋服」をつくるということだ、と思った。
未完成って、進化途上、現在進行形、ってことでもある。
川久保玲は、未完成でありつづける服のデザインをする人、なんじゃないだろうか。
それが、進化しつづけるデザイナーってことになるから。
随分前のことなので記憶がおぼろげだけれど、NHKでコムデギャルソンを特集した番組を見たことがある。
デザイナーたちは、デザインを考案した後、はじめて使用する生地を渡される。
予想外の素材の生地を与えられたその時点で、デザイナーは、生地に合わせてデザインを急遽修正しなければならない。
そこに、さらなる創造が生まれる。
というより、そうやって自社のデザインまで、完成形を一度「破壊」しているのである。
本を読んだ後、新宿伊勢丹をぶらぶらしていて、コムデギャルソンに遭遇。
写真で見かけた今年のショーの服が、ディスプレイされていた。
洋服としての立体造形からかけ離れ、巨大な植物のような不思議なデザインのその服は、得体がしれない何か、のはずなのに、美しかった。