書店と百貨店

Kindleについて書かれた本を読んでみる。
おおむね、Kindleを肯定した内容だ。
その中で、ひっかかったセンテンスがひとつ。それは。
Kindleでは、書店で起こる、本との偶然の出逢い、のようなものは、起こらないだろう」というもの。
確かに、アマゾンで本を買うと、アマゾンなりのアルゴリズムを駆使して「私の好み」の推測をして、おすすめ本を見繕ってくれる。
でも、そうやって見繕われた本の中で、買ったものって、思い返してみても、ほぼ皆無のような気がする。
逆にリアルな書店では、自分では全く買うつもりのなかった本を、買ってしまうということがある。
なぜだろう。
空間把握力の差だろうか。
最近読んで面白かった二冊の本が、どちらも著者がデザイナーで、うち一冊は寄藤文平の「絵と言葉の一研究」だと書いた。
もう一冊は、佐藤オオキ「ネンドノカンド 脱力デザイン論」である。
ふたりとも、自身が手がけたデザインの仕事にまつわる話がメインで、文章も内容もとても面白い。
しかし、同じデザイナーなのだけど、二者の仕事領域の空間、のようなものに、差を感じる。
それは寄藤文平が、グラフィックデザイナーで、佐藤オオキは建築科出身のデザイナーという、フィールドの違いからくるものなのか。
デザインの舞台が、紙(二次元)上か、空間(三次元)上か、の違いだろうか。
ビー玉から高層ビルまで手がける佐藤オオキのデザイン領域を思うと、三次元を舞台にしたとたん、デザイン空間の、奥行きがぱあっと拡がるような気がする。
人間が、二次元に対峙したときと、三次元の空間の中に放り込まれたときでは、空間の把握の仕方が全く異なってくる。
情報処理の仕方も、違ってくる。
ネット上で本を検索することと、書店の中を、歩くこと。
リアルな書店空間で、目に飛び込んでくるさまざまな本の姿に対する、人間の無意識の情報把握力、情報処理の量や速度を思うと。
なんか、三次元(書店)のほうの情報処理の仕方のほうが、面白い結果になりそうな気がする。
豊かな結果になる気がする。
自分で検索ワードを指定しないまま、他人(書店)が編集した書棚を巡り歩く。
あ、この本読んでみようかな、と偶然手にとったその本が、自分でも予測不可能だった、検索ワードだ。
ネットのようなバーチャル空間は、ほぼ無限なほどに広範囲だけれど、書店は有限空間なので、検索ワードがない状態でも、巡り歩ける。
そういえば、寄藤文平の本も佐藤オオキの本も、書店で偶然出逢った本なんだよなあ。
そして、ふと思う。
書店と百貨店は似ていると
先週、新宿伊勢丹を巡り歩いているときに、自分の目がキャッチしたアイテムがあり、試着をし、結果的にそのアイテムを買った。
そのときの私は、何か買おうと思って歩いていたわけではなく、いわば「検索ワード」を持たずに歩いていた。
でも、そのアイテムに逢ったとき、そういえばこれ…と自分で気がつかずにいた用途と欲望に気がつく。
検索結果の後に、検索ワードを発見するのだ。
新宿伊勢丹の、店舗どうしの境をほぼ撤廃した、無尽蔵ともいえる商品の配置は、その空間を歩いたとき、情報処理範囲が広がりやすく、情報キャッチもしやすい気がする。
豊かな森の中を、歩く感じ。
たいていの百貨店で、もっと敷居の高い売り場づくりをしているはずの、ハイブランドの服が、突如眼前に現れたりするのは、危険だけど高貴な動物に森の中で遭遇する感じ。
思い浮かべてみると、本と同じく、服も、ネット上で偶然出遭ったものより、リアルな売り場で偶然出遭ったものが、大部分じゃないだろうか。
「出逢う」って、「検索ワードを持たないこと」、が条件じゃないだろうか。
書店そのもの、百貨店そのものが、それぞれの個性で編集・構成されている、ひとつのサイトだとする。
そのサイトは、有限空間だからこそ、検索ワードを持たずに巡ることができる。
改めて。たしかにKindleは、「本と出逢う」のは無理かもしれない。