キティは微笑む

ときどき、本を読みながら、印象的なセンテンスをノートに書き留めたりする。
しばらく後に、そのノートを見てみると、今ではぴんとこないセンテンスや、改めて、感銘を受けるセンテンスなんだけど、出典がなんだったのか、わからなかったりする。
そんな過去のノートの記述の中で、昨日、気になったセンテンスは。
「すべての行動は、双極、または対極からなっている。
なにかをこれでもかこれでもかとやっていくと、その反対のものが姿をあらわす。
たとえば、美しくなろうとする必死の努力が人を醜くし、やさしくなろうと頑張りすぎると利己的になる」
出典は、「タオのリーダー学」とあるから、たぶん老子の思想がもとになっている言葉のようだ。
なんとなく、物理の法則っぽくもあり。
食べものでも、拒食症のあとには過食症がくるというから、対極があらわれる、というのもわかる気がする。
先週、「常識として知っておきたい美の概念60」を拾い読みしたときのこと。
世界史的に見た、美の概念の歴史の章とは別の章立てで、日本の美の概念の歴史もラインナップされていた。
幽玄、婆沙羅、いき、琳派、わびさび、陰影礼賛、などときて、現代の頁に行き着いたとき、何があったか?
「可愛い」と「萌え」である。
「陰影礼賛」の次の段階が、いきなりキティちゃんである。
そのあまりのギャップの大きさに、混乱。
大人から突如、幼児へ、にも等しいこの振り幅の大きさはっ?!
でも。
物理っぽい老子の法則によれば、大人としての渋みを極めてしまった段階で、その対極である、幼な子的なものが、日本のカルチャーにあらわれたってことなのかも。
ああ、なんか、静謐な座敷に座り、ほのかな光を透かす格子障子を見ていたら、突如、障子紙に、キティちゃんのシルエットが映しだされるイメージが。
広重の、江戸百景の百枚を、ほおお、と一枚一枚歩きながら鑑賞していたら、突如、絵の中にキティちゃんが身体の一部を見え隠れさせながら、かくれんぼのように頻出しはじめ、冬の江戸の風景の一枚、江戸の雪景色をはるか上空から俯瞰している鷹の図版が、鷹じゃなくてキティちゃんになっていたりして。
江戸時代の三越のにぎわうようすを描いた版画の中の、三越で着物を選んでいる客が、大量のキティちゃんになっていたりして。
しかし、たぶんキティちゃん、浮世絵版画の中に現れても、なじむ気がする。
北斎や広重の版画が、キティちゃんをどこかに配するだけで、とたんにポップアートになっちゃいそうな気がする。
さすが、世界をとりこにしているキャラ、キティ。
キティの凄さって、キティそのものは幼な子文化のシンボルに見えながら、成熟と渋みを極めた大人文化にも馴染んでしまうような、汎用性があること、
そして大人文化に、別のテイストを与えてしまう調味料的な力を持つところなのかも。
世界中のカルチャーが、基本は大人文化であるならば、そこに進出していける力をもっているのは、大人文化のスパイスとなる「可愛い」なのだ。
メインになると過剰になってしまうけど、小さなアクセサリーのように、メイン(大人)を、際立たせるもの。
あ。
似たものが思い浮かんでしまった。
それは、おしゃれな子連れセレブの姿。
たとえば、キュートな息子を抱いて歩く、ミランダ・カー
まるで息子フリンくんは、ミランダに「可愛い」を添える、おしゃれスパイスのごとく。
世界中の大人文化のスパイスのひとつとして、これからもキティは微笑みつづけるのだろう。