桜とアートと

今日が満開、だそうなので、午前中に、青山霊園の桜並木をちょっと歩く。
青山霊園が、お墓とは無関係な、大勢の人々で賑わう唯一の時期だ。
青山霊園というくらいだから、もともとは士族の、青山一族の土地。
たぶんあるときに、跡継ぎが途絶えてしまって、墓地が必要な周囲に住む士族が、それっとばかりに、墓地にしちゃったのかなあ、桜の木をひっこぬいてまで、墓地スペースは広げなかったようだけど、まさか「墓地でお花見状態」になっているとは、青山家のご先祖は想像もしなかっただろう、といいかげんな推測をしながら、桜を鑑賞。
午後は、六本木アートナイトの各地を、ぶらぶら歩き。
今年で四回目の開催で、二日間限定のイベントなのに、その力の入れ方は衰えていないようすである。
集まる人々も、さらに増えているような気がする。
しかし私は、以前はもっと熱心に、美術展を鑑賞していたのだけれど、今は、それほどまで熱くなっていないため、本格的な各イベントが稼動開始する夜になるのを待たずに帰宅。
そのためなのか、今年は、アートナイトの展示物そのものよりも、アートナイトとは関係ない既存の展示物について、気がついたことがあった。
もちろん、アートナイトが刺激になったのだと思うけど。
六本木アートナイトの主要会場のひとつである、東京ミッドタウン
地下1Fの受付の前に、オープン当初から、オブジェが備えられている。
大理石のような、白くてなめらかな、丸い巨大な石のオブジェで、中央に空洞がある。
この空洞が、通りかかったこどもなら誰でも、よじのぼって中に入ってみずにはいられない魅力をもった、代物なのだ。
休日に、このオブジェに行けば、かなりの確率で、まるで罠にかかったように、こどもがひとりふたり、石の中に入っている。
どのこどもも、とても嬉しそうに。
ちゃんと靴を脱いで入るところが(石の前に脱いだ靴がある)さすが日本のこどもである。
このオブジェ、鑑賞者が参加することで、初めてアートが完成する、鑑賞者参加型の現代アートのひとつだと思う。
「中に入ったこども」を含めて、アートになるのである。
たまたまその日そのときミッドタウンにいたこどもが石に入ると、「その瞬間にだけ存在するアート」が生まれる。
この鑑賞者参加型アートって、服に似ている。
人の身体が入ってはじめて、その形が成立する服に。
私が、展示型の美術展に、前より熱くなれなくなったのは、アートと鑑賞者が分断されているからかもしれない。
でも「一過性のアート」で、かつ「鑑賞者参加型アート」は、たぶん、私、今でも好きなんだ。
過去に見たものの中でも、断片的に記憶に残っているから。
設置されたパソコンのブラウザに、鑑賞者が好きな検索ワードを入れると、その検索結果のワードが、さまざまな字体や色や大きさに変換され、目の前の巨大なスクリーンにいくつもの検索結果ワードが配置されて、それが作品になっているもの。
(当然、誰かが新たな検索ワードを入れるたびに、作品の様相が変化していく)
自分が使っているSuicaを、設置された読み取り機にあてると、過去にそのSuicaで通った経路をたどり、目の前の巨大路線図のスクリーンに線が描かれていって、その集積が作品となるもの。
その日、自分のSuicaを機器にあてた、さまざまな人の、過去の電車移動の痕跡が、線で描かれ、集積されていく。
そういう、偶然に一瞬だけ存在した、「なまもの」な感覚のアートは、今でも覚えている。
というより。
「ミッドタウンの石」は、鑑賞者参加型の、「なまもの」アートだけれど、検索ワードの集積と、Suicaの経路の集積のアートは、さらに「つながり」がある。
見知らぬ人々の個人的な痕跡が、集積して、それがアートになっているのだから。
見知らぬ人々が、偶然つながって、一緒に作品を、つくりだしたってことになる。
ミッドタウン内のアートで、もうひとつ。
ミッドタウンの店舗で、先月から閉店して、新店舗の入店待ちになっているスペースがいくつかある。
それらを、ただ壁で覆うのではまずいとミッドタウンが判断したのかどうかわからないが、ことばのアーティスト・イチハラヒロコのことばが、ウォールに入れこまれている。
このイチハラヒロコのアートの形って、ツイッターみたいなものかも、と気がつく。
イチハラヒロコが最初に有名になったときは、まだツイッターが(もしかしてインターネットも)存在していなかったと思う。
しかし、ミッドタウン内に現れた、この「巨大なつぶやき文字」は、なんだかツイッターアートと呼びたくなる様相である。
それから、もうひとつ。
ミッドタウンではなくて、六本木トンネルのウォールペインティングのこと。
これは、ずいぶん前から存在しているアートなんだけど、今日、その前を通ってみて。
四名ほどのプロのアーティストが、巨大なウォールペインティングを描いたんだけど、
この四人で事前に打ち合わせしたのだろうか?と思うほどに、テイストが統一されている気がする。
そのテイストは「黄泉」だ。
六本木トンネル内のこの壁に描くのは、ちょうど、青山霊園を背後にして描くことになるのだけれど。
なんだか背後から、絵の完成を見守る何者か、の存在が後押しする力が、画家をもってこのテイストで描かしめたのかもしれないなあ、って思う。
私はその方面には鈍感なほうだと思うけど、そんな私でさえ、以前この六本木トンネルを通過するとき、変に気分が優れない状態になったことがあり、自分の右側に延々とつづく、青山霊園から、何かの力がきているのでは?なんて危惧したものだった。
たぶん私よりも、四人の画家はずっと敏感な感性を備えているはずだし。
六本木アートナイトの日に、アートナイト以外のアートについて、さまざまに考えた一日なのだった。