男ものを着る

他の人と、服がかぶってしまったことって、ある?
女ものの服で、私が記憶している、人とかぶった経験は、三回。
三着の内容は、ローラアシュレイのワンピースとユニクロとバナリパのスカートだった。
メジャーな市場の服は、多くの人が手にする可能性が高いということだ。
さて、去年の春夏、たったワンシーズンで、私は、男ものの服で四回、人とかぶった。
バナリパのストライプシャツと、ポロシャツと、ユニクロのコットンリネンのシャツ、白とブルー。
当然、かぶった相手は四回とも男性だったが。
女ものの場合、ダーツが入ったスリムシャツやストレッチコットンのシャツが多くて、私は、素直なコットンで、ダーツが入っていないストレートな感じのシャツを探していたのだ。
悩んでいて、ふと、それって男もののシャツのSサイズで代用できるんじゃないかと思った。
さすがに、男もののシャツは、スリムシャツ仕様に仕立てていることのほうが、少ないはずだ。
お手ごろ価格のバナリパとユニクロで試し買い。
結果、ポロシャツ以外は、来年も持ち越すことにし、クローゼット内で、今年の春夏に向けて出番待ちである。
女ものの服で人とかぶったときは、気まずさが大きいあまり、翌年への持ち越しはしなかった。
男ものだと、平気だ。
だって、男性の間で、人と服がかぶるのって、日常茶飯事でしょう、たぶん。
(男性と女性の間で服がかぶるのは、非日常的かもしれないが)
男ものの服って、ベーシックなデザインだけで成立しているし。
大人の制服のように、人と同じものになってしまっても、不自然ではないのだ。
それについて、さまざまな発見をもらっている、長沢節の著書から、さらに発見があった。
女性の服を手がける、男性のファッション・デザイナーには、必ずしも女性を愛し、女性を美しいと思っているとは疑問としなければならない人物も存在する、というもの。
「ときに女を憎み、敵視して、女をわざと醜くしてしまっているようなファッションをつくりあげていく」
というセンテンスに、深くうなずく。
というのは、つい最近、ファッション誌に掲載されている、ハイブランドの最新の服の広告写真を見ていて、この服、本当にこれを着た女性を美しく見せるんだろうか?と首をひねっていたからだ。
女性の服のシルエットが、戦略的に変化中らしい。
肩に丸みをおび、ゆったりしたビッグシルエット。
シャネルの広告写真のワンピースも、それ。
身も蓋もない言い方をしてしまうけど、このシルエット、「もっさり」シルエットにしか見えない。
それぞれの女性が持っている身体の、せっかくの美しさを、わざわざ醜いシルエットで覆い隠してしまうことにならないだろうか?
そこで、さらに長沢節の著書から。
「西洋で、正式な、男の夜の遊び着は、カジュアルではなくフォーマルウェア
女性の服のバラエティの豊富さに比べ、男性は、タキシードや燕尾服という、決まりきったユニフォームである。
男たちが揃いのユニフォームを着るのは、女には、あらん限りの自由で派手な服装を競争させて、それを楽しむ側であるから。」
なるほど…。
舞台の上で女たちが競い合うのを、男たちは客席で鑑賞しているような図式。
女たちの服が、奇妙奇天烈なものになっていけばいくほど、滑稽で、鑑賞のしがいがあるのだろう。
しかし、それは古典的な西洋の姿であって、たぶん、客席じゃやだ、自分も舞台の上に立ちたい!っていう男の子も、現れはじめているのが現代なのかもしれない。
服の男女差で、思ったことがもう一点ある。
シトウレイの最初の写真集の中に、「ジェントルマン」という章があった。
モデルではない、一般人の、自分なりのお気に入りやこだわりの、カジュアルスーツやドレススーツを着た、幅広い年齢の、さまざまな体型の男性たちの姿。
それを見ていてふと、そっか、年齢によって体型が変形しようとも、男性のスーツは、オーダーでぴったりのものを作ることができるんだ、と気がついた。
女は、年齢によって体型が変形した場合、その変形を隠すデザインの服とか、変形した身体をねじこむことのできる既製服を探すのに。
男ものは、オーダー市場が当然なものとして、存在しているのに、女ものの服の場合は、オーダーは、男もののついでに引き受けるところが主流で、カジュアルやドレッシーなスーツの日常的なオーダー市場は、まだまだ希少だろう。
「ショッピングチャンネル」のファッション番組で、2L、3Lサイズまで用意され、かつそれらのサイズが先に売り切れて行く様子を見るにつけ、男ものの服の持つ、
冒険のなさと、自由さという、ふたつの相反する要素を、うらやましく思ったりする。