映画:アンナ・カレーニナ

服装について悩んできた中で、”ファッションは、自己の表現、内面の表現である”という言葉に、何度も出遭った。
この映画を見終わって、帰宅して、就寝時刻になって、半分意識が眠りかけたとき。
あ、映画の中の、アンナのドレスって、と気がついた。
ヒロイン、アンナの夫の名はアレクセイ。愛人の青年将校の名もアレクセイ。
アンナは当初、黒のドレスを着ている。
夫アレクセイも、ほぼ全編にわたって、黒のトーンの服装をしている。
それに対して、青年将校アレクセイは、全身白の服装だ。
アンナが彼と恋に落ちるシーンは、舞踏会のダンスシーンで表現されている。
このダンス、アンナは黒のドレス、青年アレクセイは白の服装。
このダンスの振り付けが、なんとも独特で、向かい合ったふたりは決して”組む”ことがなく、手のひらや肘の部分を、同じ動きでスライドするように触れ合わせながら踊るというもの。
まるでふたりのあいだに透明なプレートがあるような、不思議な動きの振り付け。
これ、ちょうど、人間が、鏡に向かって、鏡像に触れようとしても、決して触れることができないような動きである。
黒のドレスのアンナは、白い服の青年アレクセイという光に出逢った、影のよう。
闇の世界から、光の世界に飛び出すかのように、アレクセイの愛人になってから、アンナの服装は、白いドレスに変化する。
愛人アレクセイ自身の服装だけではなく、彼の馬も白馬だし、ふたりの逢引のシーンも、まぶしい陽光の下の、白いピクニックシートの上や、真昼の白いベッドシーツなど、白に彩られた世界。
アンナが黒のドレスか、白のドレスを着ているかは、黒(夫)と白(愛人)のどちらに、アンナの心が属しているかの表れだ。
だから、アンナが白でも黒でもない服装をしたときこそ、劇的である。
夫からも愛人からも解き放たれ、アンナ自身の心だけが映し出された服装ということになるから。
その服装の一部は、最終シーンと、そのすぐ前のシーンに現れる。
最終シーンのドレスは、黒味を帯びた赤。
闇(黒)でも光(白)でもない「血と肉」のイメージ。
もはやアンナが、原初(原罪を負う)的な「血と肉の塊である人間」としてのみ、存在しているかのような。
最終シーンのすぐ前に現れた服装は、もっと奇妙だった。
ドレスそのものを着ていない。
下着の上下を身につけ、下半身に、ドレスの円形を保つためのパラソル型の骨組みのコルセットをつけている。
骨だけのパラソル形コルセットが、アンナの内面が、空虚で、空っぽであるイメージを強調している。
思えば、内面の表現としての服装、という演出が最も生きるのは、映画かもしれない。
貴族社会で断罪されたアンナの不貞行為を、潔白、無垢などのイメージを想起する白に彩った演出の艶に、うっとり。