混雑は美しいか

「世界で最も美しい書店」(著者:清水玲奈)の中には、代官山蔦屋書店がセレクトされている。
まだ行ったことないなあ、と、先週末に代官山を目指した。
土曜日午後3時頃に到着し、仰天。
週末は数万人の来客で賑わう、と聞いてはいたけれど、書店の中には人が溢れんばかりの状態である。
敷地内の造りの雰囲気は、なるほど、素敵だけど、敷地内のカフェには待ち行列、書店内のカフェも、空席なし。
とてもじゃないけど、ゆっくりと本を選んだり、ブック・コンシェルジュに本のセレクトを相談したり、本を読みながらコーヒーの香りをゆったりと楽しむ雰囲気には、ほど遠いなあ
たぶん、平日の日中なら、この人ごみは緩和されていると思う。
しかし、人で溢れているわりには、レジの待ち行列ができていないあたり、「本」を求めてというより、「場」を求めてやってくる人々が多いって気がする。
本の顔が、人の顔で見えない、って状態は、書店としては居心地が悪い。
期待した、本との偶然の出会いを果たすこともかなわず、何も買わず、落ち着かないまま「世界で最も美しい書店」を後にする。
書店って、商店である限り、主役はお客(人間)であるべきとは思う。
でも、インテリア的には、主役は本、脇役が人間って気がする。
インテリアとしての、場所的な美を保つには、週末の蔦屋はあまりにも、人が多すぎた。
場の美しさが、混雑で台無しって感じである。
「世界で最も美しい書店」に登場するさまざまな書店は、場としてのアートに等しかった。
その点では、美術館に通じるものがあるかもしれない。
行ったことがないが、銀座のエルメスには、最上階にエルメス博物館があって、その博物館で鑑賞するときは、専用のマントを渡されて、それを羽織って鑑賞すると、随分前に聞いたことがある。
それって、鑑賞者(人間)の存在が、その場に異質感を与えないような工夫だと思う。
場に対してだけではなく、鑑賞者への配慮でもある。
正直、美術展で一番邪魔なのって、自分以外の人間だもの。
(余談だが、先週行った近代美術館「フランシス・ベーコン展」では、なぜか鑑賞者の中に、暴れる寸前のおじさんがいて、たしなめる館員に、「このやろう、さっきから同じことばかり言いやがって!何なんだこのくだらない絵は!」と絵を指差して激怒している風景に遭遇してしまったため、作品そのものよりも、それが強い思い出になってしまった。ごめん、ベーコン。)
また、二年前の六本木アートナイトで、メインとなった草間弥生の作品のひとつ、巨大水玉模様かぼちゃのオブジェが、国立新美術館の屋外に展示されたとき。
そのオブジェの鑑賞者には、水玉模様のフリース素材のマフラーが配られた。
可愛くて鮮やかな水玉模様のマフラーを巻いた人々が、巨大水玉模様かぼちゃをとりまく、そのキュートな効果。
鑑賞者は、作品にとって、マイナスどころかプラス因子となる。
鑑賞者の方々、かぼちゃのそばにようこそ! あなた方がやってきたほうが、かぼちゃは楽しい!って感じで、かぼちゃの周りで、人間も、みんなうきうき楽しそうなのであった。
混雑は美しくない。
でも、なにかリンクするものがあれば、混雑は美しくなる。
エルメスのマント、草間弥生の水玉模様のマフラーみたいな、リンク要素。
服装も、そうなんだろう。
服装における「混雑」って、たぶん「盛りすぎ」な感じ。
どこかにリンク要素があれば、「混雑」も美しくなるはず。
たとえば、多色使いの柄物の服に、別の服や、バッグをあわせるには、その柄の中の一色とあわせるのがコツ、というのも、それなんだろう。
どんどん地味な服装になっていっている私は、「服装的混雑」はただいまのところ、無縁だけれど。
代官山蔦屋書店、いっそのこと、ドレスコードがある日をつくっても面白いのかも。
この日、この時間帯、この建物は、トップスは黒の服装でご来店ください、とかさ。