プレゼントはプレゼンである

今週のお題「私のお母さん」
イッツインターナショナルの店舗では、母の日プレゼントの場合、通常有料のラッピングが無料だった。
ミルクティー色のイッツインターナショナルの窓開き箱に、コートが納まり、ラッピングのリボンの色が8色から選ぶことができ、コートの色と同じ、ネイビーのリボンを選ぶ。
なんだか、浮き浮きしてしまう。
ラッピングで浮き浮きするのって、ひさーしぶりである。
「世界で最も美しい書店」のエッセイで、原研哉が、文化の系譜のひとつに「器(うつわ)系の道具」があると指摘していたけれど、「ラッピング」も器系の文化に違いない。
中身への敬意、贈る相手への敬意、贈り主の気持ちを包んでくれる器。
プレゼントをすることが必要になったときって、一番安全なのが、高級スイーツを贈ることなんだそうだ。
高級スイーツの失敗の確率に比べて、服を贈るのって、とても難しい。
その人をよく知らなければ、選べないし、親しい友人だから選べるかというと、そうでもない。
先日友人と、フェアトレードオーガニックコットンを使用した、エシカルファッションのショップ、ピープル・トゥリーに行ってみた。
服のデザインのタイプが、残念ながら私とはそぐわなかったので購入はしなかったのだが、ショップ内で「そういうフェミニンな花柄ワンピ、着てたのに着ないの?」と友人は不思議顔。
あ、そうか、長年のつきあいの友人の場合、私のイメージの履歴が長いだけあって、似合う似合わないより、履歴の長い服のイメージのほうが強くなっているのだ、と気づいた。
服を変える、とは、イメージを変えることに等しい。
自分とつきあいの長い間柄の人ほど、自分のイメージが長期に渡って刷り込まれているので、自分が本来似合うイメージとのぶれの見極めは、難しい。
「イメージの慣れ」をぶちやぶるには、何か別の力の働きかけが必要なのだ。
映画などで、ときどき、ヒーローがヒロインに服(たいていの場合日常着ではなく、ドレス)を贈るシーンがあるけれど、リアルにそれをやったら、贈られた服が似合って、かつ喜ばれる確率は限りなく低いような気がする。
もっとも、男性が女性に服を贈る場合は、その女性に似合う服、その女性が望む服というより、男性がその女性に着てもらうことを望む、女性の好みではなく男性の好みが強く入った服だと思うが。
・・・・・。そういう意味では、男性から女性への服のプレゼントって、君にはこういう服を着てもらいたいんだ!という男性の気持ちのプレゼンなわけね。
うん、やっぱり、プレゼントって、プレゼンなんだ。
私はプレゼンが必要な仕事はしていないけど、自分の気持ちのプレゼンだと思ってプレゼントを選べ、と考えたら、プレゼント選びの本気度がちがってくるのかも。贈る相手の重要度によるけど。
母の日の前夜に到着したプレゼントのスプリングコートは、軽くて、サイズがぴったり、と母は喜び、無事、成功を収めたのだった。