ラグジュアリー疲労

菅付雅信の著書「中身化する社会」を読む。
著書の職業が編集者なだけあって、ひとつのテーマに沿った、さまざまな情報の編集により、書籍を仕立てたような内容。
編集元データそのものに、面白いものが多くて楽しめる、創作センスより編集センスが際だった書籍。
とはいえ、控えめに付け加えられた著者自身の思想や指摘も、面白い。
この本の第一章には、人々の装い(服装)に関する潮流の変化がとりあげられている。
それは、消費者のラグジュアリー疲労
「ラグジュアリー・ブランドへの渇望を、執拗に煽られることに疲れた消費者は、「ラグジュアリー」から、カジュアルで本質的で心地の良い「コンフォート」に向かっている。
そして、そのコンフォートの波は、特にファッションに影響を及ぼしている」と。
女性ファッションの、ハイヒールからフラットシューズ、スリムシルエットからビッグシルエットへの変化の傾向も、この波のひとつなのかも。
著者は、その原因のひとつは、人々が着飾ることで見栄を張ることをやめたからではないか、と指摘。
なぜなら、いまや人々の人格は、ネット上である程度判断されるから、と。
「僕らは、会う前に、買う前に、かなり相手のことを知っている時代に生きている。そこでは見た目の第一印象はあまり大きな意味を持たない」
「ファッションの消費こそ、もっとも可視化しやすいコミュニケーションの方法であり、自分の記号化でもあったのだ。
しかし、ファッション以上に速い言語(→ソーシャルメディアでの情報発信)を、すでに人々が持ち始めているとしたら、どうだろう?」
「第一印象は実際に出会うことから来る時代は終わりつつある。それはネットから来る。そして、ファッションなど見た目の印象ではなく、ネットの検索結果として浮かびあがる情報で、人や集団は判断される。」
・・・・・・・。
しかし、つい一週間前、私、六本木の交差点の横断歩道上で、正面から「ブス!」と一喝されたけど、見た目で判断するその男の行動が、もはや時代遅れで、そういう行為もなくなっていくのだろうか?
たとえば、すれちがいざまの人間の身体に向かって、自分のスマートフォンのボタンを押すだけで、その人のパブリックなネット情報にアクセスできる機能が開発されたとして。
見た目ではなく、ネット情報のほうで、評価されるということ?
誰彼かまわず、すれちがう異性の情報にアクセスする人もいるかもしれないけれど、ブス!と一喝する相手の情報には、ふつうアクセスしないじゃないだろうか。
いや、そもそも私、自分にブス!って一喝した人に、自分のネット情報を見て、評価を再考してもらいたいとは、全く思わないんだけど。
生存途中で、ネット世界が誕生した世代と、生まれる前から、ネット世界が普通に存在する世代とでは、思考回路がまったくちがうだろう。
後者の世代は、生まれた時点から、親がネット情報を、つくっているだろう。
こどものネット情報が、そのこどもの評価元データを、こどもの広告を、つくりあげるようなものとなるとしたら。
「着飾る」という見栄の張り方はしなくなるとしても、ネット世界で見栄を張ることになっていくだろう。
となると。
この本の第二章で、人々がもはや広告を信じていない、という指摘もあった。
ネットが、見栄を張る場所となり、個人広告化していくとしたら、やがては、ネット情報も信じられなくなる。
そうなると、再び、リアルな情報に戻るんじゃないかなあ?
人が五感で受け止める、三次元の情報に。
人間そのものは、決してテキストデータ化できないから。
結論。
何かを評価するときに、神かクソか、という極端な判断しかできない五感が、女性を評価するときに、美人かブスか、という極端な判断しかできないのと同様のものであるとするなら。
いくら、ネット情報が判断基準となるのがトレンドだ、と各種メディアが謳っても、すれちがう女性に、ブス!と攻撃する人の存在は、なくならない。
人間は、たった二文字のテキストデータに変換できるものではない。
ネット情報を豊穣にするより、五感を豊穣にするほうが、見た目判断基準が豊かな人々が増えて、嬉しい。