林真理子が好きになる

前記事のつづき。
林真理子の著書「野心のすすめ」で一連の記事を始めたので、結びで再び、本についてメモ。
印象に残ったセンテンス。
「「エッセイとは、つまるところ、自慢話である」とはしばしば言われることですが、小説よりもエッセイのほうが、物書きは嘘を吐くと私は断言します。
いくら本音を売りにしたエッセイであっても、小説のほうが、遥かに正直な自分が出てしまう。私小説でもなく、たとえそれが伝記小説であっても。」
→まさに!と思うことを、最近経験。
私の友人で、なぜか周囲に趣味で小説を書いている知人が三人いて、(ふつう、そういう知人が三人もいないと思うが)三人から自作小説を読まされ、感想を求められているそうだ。
あるとき、ひとりに正直な感想を言ったら、私がこどものように思っている小説をそんなふうに言うなんて!と激怒されてしまった、と嘆いていた。
ためしに読んでみてよ〜と、私も、知り合いではないその人の小説を読ませてもらったのだが、たしかに、ナルシスト的な痛さがある。
その人の書いた、日々の雑記のエッセイにはそれを感じないのに、小説となると、作者のナルシストぶり、ロマンチストぶりが、こんなに浮かび上がってしまうんだなんだなあ、と発見。
エッセイよりも、小説のほうが、作者の本性が露になる、というこのセンテンスには、納得、共感。
「私が最近の若い人を見ていてとても心配なのは、自分の将来を具体的に思い描く想像力が致命的に欠けているのではないかということです。
・・・・しかし、肌もたるみ、髪も痩せ、全身がいよいよ重心に逆らえなくなってくる四十代、五十代になって、毎日が全身ユニクロでは、惨めこの上ないわけです。」
→これを、二十代の自分が読んでも、たぶん理解できなかったと思うが、45歳の今は、とても理解できる。
二十代のときって、自分に訪れる加齢による変化って、想像できないから。
45歳で、毎週街中で見知らぬ人から、ブス!と言われている私は、ただでさえそんな状態なら、せめて働ける限り働きつづけて、健康面や、体力面や、物質面で、自分にとって居心地の良い生活を、経済的にも保てるように、センスが向上するように、努力していかないと、まずい、と思う。
そういう意味では、ブス!と言われてしまうのは、日々の叱咤の刺激であり、(激励には決してならないけど)その点では、自分にとってはプラスの効果になるといえばなるのかも。
「同じ時間を生きているのに、私たち人間には知識や器の差がある。この差はどこから生じるかというと、隙間の時間にも、どれだけ積極的に自分の人生とかかわっているかの違いに拠るところが大きい。
電車に乗っている三十分なりで、本や新聞を読む人と、携帯電話でのメールに明け暮れている人の差は、年齢を重ねるごとに大きくなっていきます。」
「そうして費やしたお金は何にいちばんわかりやすく反映されるかというと、会話の面白さだと思います。・・・・そうして自分への投資が実を結び、会話の面白い人間になっていくと、いろんな人が寄ってくるし、お座敷がいっぱいかかるようになります。
そこで、また面白い人に出会って、さらにどんどん会話が広がって魅力的な人間になっていくのです。」
→このセンテンスを読んで、へえ、林真理子って、努力家なうえに働きモノなんだなあ、と好感を持った。
勝間和代の時間投資法的な行動であるが、動機がまったく違う。勝間和代は、効率よくお金を稼ぎ出す自分に到達するため、という印象なのだけど、林真理子は、面白い人になりたい!そして周囲の人を楽しませたい!好かれたい!
面白い人、好かれる人に成長するにはお金だって必要、といった感じ。なんだか可愛い人だなあ、と思ってしまった。
「野心」はあるけれど、「金銭欲」があるわけではないのね。望んでいる、金銭の使い道がそれだから。
この本の中に、林真理子の過去の随所の写真も何点か掲載されているが、彼女の場合、若い頃より、今の方が、感じがいい。女性としての印象がいい、というべきか。
美人の場合、若い頃の自分と、年齢を経た自分の美しさを競わせたら、どうしたって「若い頃の自分」が勝ってしまうことが多いと思う。
(私みたいに)もともと美しさを喪っていなかったら、失う恐怖も、そもそもないわけで。
長生きせねば。