美の基準に、振り回されないには

堀江貴文の新刊「金持ちになる方法はあるけれど、金持ちになって君はどうするの?」を読む。
著者以外に、関係者によるコラムが数本、差し込まれていて、その中の、堀江貴文についての見解で、気になるセンテンスあり。
「堀江さんは、ほとんどの人よりお金のことを考えてないんですね。
大多数の普通の人の方が、堀江さんよりはるかにお金のことを考えている。
逆説的ですが、お金を稼げるようになると、何が一番いいかというと、お金のことを考えなくても良くなることなんです。
お金に人生が振り回されない。
…堀江さんの言うように、お金なんて、夢を実現したりするためのひとつのツールなんですよね。
だから、みんなそんなにお金のことばかり考えてどうするの、と思います。
…お金もセックスも、なければそのことばかり考えるけど、あれば考えないんですよね。」
あ、そうか。
すでに持っている(と、自分が判断している)ものは、求めなくなるんだ。
そういえば、樋口一葉の「たけくらべ」は、随所隋所に、こども世界まで含めて、お金に拘束される人々の姿が立ち現れている小説なのである。
私生活で、常に金策に追われていた一葉は、お金のことが頭から離れなかったんじゃないかなあ、なんて思う。
この「お金」の部分って、さまざまな言い換えがきく。
たとえば「お金」が「美しさ」だったら。
「美○ト」の前編集長が、マーケティングがテーマの新書の著書の中で、「美魔○って実は○スが多いんです」と記していて、意外に思ったのだが、美女という状態を持っていない(と自分で判断している)人だからこそ、美女になる状態を欲する、ということになるんだ。
だから、美容に打ち込むわけね。
美しさを持っている(と自分で思っている)人は、美を欲しがらず、美への欲望にも振り回されないということだ。
ちなみに、私の周囲には、おしゃれや美容に必死な人と、まるでその方面に興味を持っていない人がいる。
あるとき気がついたんだけれど、後者の人って、美をあきらめている、美を捨てているようなイメージを受けるけれど、逆の人もいたりするのだ。
意外にナルシストだったりするんですよ。
自分は十分美しいと思っているからこそ、余計な美を求める行動も消費もしないの。
しかし、おしゃれや美容に必死な人に比して、彼女たちがより美しいかといえば、必ずしもそうではなかったりも、する。
所持金額が明らかになるお金とちがって、美しさは、自分の主観による判断、思い込みが可能ってことなのだ。
私はすでに、自分が満足するに足る美しさを持っている、と思いこめば、他者の美の基準に、振り回されることはないのだ。
そもそも、「○ス!」という見知らぬ人々の罵倒に、ふりまわされている私が愚かなのかもしれない。
親しい人々ならともかく、なんで私、あの人たちにふりまわされる必要があるんだろう?
そもそも親しい人々は、「○ス」なんて私に言わないし。
振り回されるということは、心労を払うということ。
無駄に心労を払うのはやめてみよう。
堀江貴文の関係者の言葉に、元気をもらったのであった。