くびれの永遠

文化学園服飾博物館の展覧会「ヨーロピアン・モード2013」を見に行く。
オードリー・ヘップバーンが、出演映画で身につけた衣装が展示されているのが、衝撃的に嬉しかった。
ローマの休日」で最初にアン王女が登場するシーンで纏っていたローブ・デコルテ、「麗しのサブリナ」でパリの料理学校でサブリナが着ていたエプロン、「シャレード」の、ジパンシイの赤のノーカラージャケットのスーツ。
ローブ・デコルテは、白ではなくゴールドで、全面に細かい小花模様が施されたゴージャスさに息をのむ。
エプロンは、マネキンが着た展示姿はもっさりしていたが、添えられたオードリー着用のスチール写真は、ほっそりしたウエストが映える、とてもおしゃれなエプロン姿で、やはり服って着る人の体型が重要なのね、と痛感したり。
さて、ロココ朝のベルばらチックなドレスから始まり、現代のドレスまで展示された会場の、華やかなこと、面白かったこと。
自然な身体のラインを生かしたドレスは、ロココの後、ナポレオンの時代に一度、登場したギリシャ風のエンパイアドレス以外、かなり後の時代、アール・デコの時代になるまで、ほぼ登場しない。
ほとんどの時代のドレスは、自然な身体のラインから程遠く、シルエットの立体造形をしまくったドレスだったのだ。
時代によって、スカートの横幅を広げたり(まっすぐドアを通れなかったらしい)、お尻の部分をものすごく膨らませたり、上袖の部分を膨らませたり、袖口の部分を(ベルスリーブみたいな)膨らませたり、後ろ裾を長く引きずらせたり。
それぞれ、広げるパーツ、膨らませるパーツが、競い合いようにどんどん巨大化し、飽和点を迎えて、流行が終わる、という感じ。
流行が変わると言っても、膨張させるパーツが、別の箇所に移るだけなんだけど。
しかし、「一箇所膨張デザイン」のドレスの歴史の中でも、ウエストだけは、膨張させることはない。
エストは、膨張と真逆、絞り込めるかぎり縮小せよ、という感じ。
いや、ウエストを細く見せたいから、ウエスト以外のほかの部分を膨張させた、というべきか。
つまり、ウエスト以外は、身体そのものを本来のサイズより大きく見せるドレス、の長い歴史があったと思う。
思えば、本来の身体より大きくみせるドレス(ウエスト以外は)の時代の頃は、ヨーロッパの食糧事情そのものが貧しく、殆どの人々は貧弱な身体であったのではないだろうか。
貧弱な身体を、豊かな身体に見せるために、着るものを膨張させる必要があったのではないだろうか。
現代に近くなるほど、本来の身体より大きく見せるデザインは姿を消していき、逆に、本来の身体より細く見せるデザインになっていく。
それは、欧米の食糧事情が豊かになってきて、人間の身体つきも豊かになり、こんどは、いかに本来の身体よりスリムに見せるか、という方向になってきたからだろう。
膨張ドレスの時代には、脚を見せるデザインも皆無だ。
ドレスが膨張しなくなると、脚が見えだす。
脚がオープンになったのも、本来の身体より細身に見せるパーツとして、脚が効果的だからだろう。
身体の中で、腕の次に細いパーツだからして。
脚を見せることが可能になったからこそ、ウエストを絞り込まないデザインのドレスも可能になる。
細見せ効果を、ウエスト一点に背負わせず、脚にまかせることもできるのである。
有名人着用ドレスの展示コーナーには、オードリー・ヘプバーンの他に、ダイアナ妃や、アメリカのセレブな夫人のものも。(クライスラーの二代目社長夫人とか)
中でも、際立って成金趣味的なガウンつきドレスの所有者の説明を見ると、なんでも、カフェのメイドから、三度の結婚を経て大富豪夫人にのしあがったノラという女性とのこと。
ドレスの趣味が、洗練よりも派手、に走っちゃったのだろう。
アメリカンセレブな夫人は、パーティで一度着たドレスは、二度と着れない方々だったかもしれないなあ。
そういう意味では、マリー・アントワネット並な、ロココ貴族並な、激しいドレス消費度である。
いや、セレブの使命として、デザイナーに思う存分腕をふるわせてドレスをデザインする機会を与えて、こうして後世の服飾史上の資料となる芸術品として、遺していく役割を果たしているのかも。
服は、着た人のことにまで、思いをはせてしまう。
楽しませてもらいました。