南青山の敷居

光野桃著「おしゃれの幸福論」を読んでいたら、次のセンテンスに、はっとした。
「ファッション業界には「おしゃれ偏差値」と呼べるような価値基準があり、そこで働くひとたちは、常にその尺度にさらされている。
無言のうちに全身をチェックされる。
ちょっとでも偏差値が下がったら、失笑される。
買うべきトレンド、組み合わせるべきコーディネートといった不文律がシーズンごとに存在し、その暗黙のルールから外れると、おしゃれ失格の烙印を押されてしまうのだ。
服を買う楽しみやおしゃれしがいのある場もひと一倍あるけれど、高い偏差値を保つことを要求され、そこから降りることができない。
降りたらまた違う苦しさが待っている、という厳しい世界。」
二ヶ月ほど前、私があるショップで体験した、違和感。
小さな心の染みのように残っている、すっきりしない小さな不快感。
その正体がわかった気がした。
○ィムガゼットの服の実物を、一度見てみたいなあ、と思っていた。
シンプルで大人っぽいデザイン。
大草直子、三尋木奈保など、多くのファッション業界のプロが褒めていて、何度もファッション誌に登場している。
そのわりに、トップスなら1万円程度、ボトムスは二万円未満、という手の届きやすい価格設定だった。
店舗一覧をチェックしたところ、一番行きやすい地点だったので、深く考えず南青山店を選んだ。
休日に目的地に到着してみると、概観も、店内も、全体にセピア色のトーンでまとめられ、その色合いに溶け込むような穏やかな色合いと素材の服が、商品であるはずなのに、部屋のインテリアを織り成すアイテムのような繊細さで、配置されていた。
色数も、デザインの造形も、デザイナーのポリシーのもとに制限されているんだなあ、と思った。
人気ショップのせいなのか、休日のせいなのか、店内には、五人ほどの店員がいた。
ものすごく広い店舗というわけではないので、この店員数はかなり潤沢だと思う。
お客も、数人入っている。
入店して、数分経ったとき。
ある違和感が沸き起こった。
どの店員も、私が視界に入ると、いらっしゃいませ、と声をかけながら通り過ぎていく。
それは、普通のショップでも見られる、普通の態度である。
しかし。
いらっしゃいませ、と口に出す前に、どの店員も1秒の「間」があるのである。
私を視界に捕らえた瞬間の、1秒間の静止。
この「1秒の間」は、通常の買い物では、感じたことがない「間」だった。
二ヶ月を経た今、気がつく。
あの1秒間は、「値踏み」だったのだ。
思えば私、南青山のアパレルショップで買い物など、したことがなかった。
たいていのアパレルは、百貨店内に出店しているから、路面店にわざわざ行く、という発想はあまりなかった。
南青山って、プロが買い物に訪れるところ、店員も、プロの客を相手にするのがあたりまえ、という体勢がとられる地なのだろうか?
あの1秒間の「値踏み」は、私の「おしゃれ偏差値」の計測の間だったのだ。
1秒で、この客はファッション業界のプロか、アマチュアか、の判定は、即座に出せる人たちのはず。
そのとき私が着ていたのは、カシュクールワンピで、イメージコンサルティングの先生が、絶対に似合いそうなワンピを見かけましたので、よかったら試着に行ってみてください、とメールで知らせてくれ、先生の予測どおりに似合ったので購入した品だった。
だから、自分に似合った服を着ている、という点では、ずれていないはずだったんだけど。
でも、一部の人たちにとっての「おしゃれ偏差値」とは、その人が似合った服を着ているかどうか、ではなく、服そのもの、服の着方そのもの、なのだ、光野桃の指摘のとおり。
その人たちの世界内で設定された価値観での、おしゃれなアイテムか、コーデか、が基準なのだ。
人間ではなく、服の偏差値が優先するのだ。
その時点ではそこまで気がついていない私は、○ィムガゼットで服を物色し、身体のラインにゆるやかに沿うコットンリネンのプルオーバーが非常に気に入った。
同じアイテムで、白と、紺の2点があり、どちらにしようか迷ったのだが、2点買いしよ、と決めた。
心のどこかで、たぶん○ィムガゼットに来ることは、二度とないかもしれない、とうっすら思っていたからだ。
だから、今日のうちに2点とも手に入れておこう、と発想したんだと思う。
あの「1秒の間」については、とても些細なことなのに、どうしても小さな違和感をぬぐい去ることができなかったが、偶然、光野桃の著書に答えが示されていたおかげで、開放されそうである。
そもそも、南青山で買い物をするならそれなりの覚悟をして行くべきであって、私が間違っていたのかもしれないけど。
店員がお客を観察するのは、そのお客の好みを探るとか、似合いそうなものとか、そのお客に対する営業方法をサーチするためだと思っていた。
しかし、「値踏み」や、「おしゃれ偏差値」の計測をする場合もあるんだ。
あの1秒間が、「南青山の敷居」なんだ。
これからは南青山を歩くときは、ウィンドウショッピングだけにしよ、と思いながら、美容院帰りにふらふら当地を歩いていたとき。
「アンダーカバー」の2Fに、別の店があることに気がつく。
往来から見上げると、なんだか素敵な雰囲気のお店である。
入り口に続く脇階段の入り口に、「BIRD HOUSE」と店名のプレート。
鳥の絵の下に英語でお店の説明書きがあり、それによると服と雑貨を扱う、ライフスタイルグッズのお店らしい。
セール中ということもあって、階段を昇り、入店してみた。
店内は、往来から見て感じたとおり、すがすがしくも素敵な雰囲気だった。
このすがすがしさは、一面が全面窓で、自然光が入るせいなのかもしれない。
店内は雑貨が占めるスペースが多く、それらを見つつ、店内を巡り歩く。
後日知ったのだけど、「クリエイターのロフト」をイメージした店舗デザインであるらしい。
「BIRD HOUSE」の「BIRD」は旅人のイメージでもあり、「HOUSE」は旅人がひととき、羽を休める場所、立ち寄る場所、のイメージみたい。
お客は私だけだったので、店員さんがサイドで、商品の営業コメントを投げてくるが、それは自然な行動であるし、穏やかな口調の人だったから、全く不快ではない。
結局、一度使ってみたかった、パンゲアオーガニクスの、ラベンダーとカルダモンのボディウォッシュがセールで値引きになっていたのを買った。
センスのよいインテリア空間に身を置けて、心地よいショッピングタイムを過ごせた気持ち、に満たされつつ、お店を後にする。
南青山で散歩するだけでは物足りない、お店の中に入りたい、と思ったら、アパレルではなく、もっと広い範囲、ライフスタイルショップを選ぶのが、コツかもしれない。
そちらには、「南青山の敷居」は、ほぼないから。