お金でセンスは買えない

今週のお題「2013年、夏の思い出」
今年の夏休み、二箇所の宿に、母と私で、各一泊した。
ひとつは、瀬戸内海沿いのホテルで、東南アジアのリゾートホテルを意識した改装が数年前に行われ、ネット上での平均評価も高かった。
たしかに大きな不満はなく、過ごすことができたが、リピートはしないなあ、と思う。
もうひとつは、勤務先の保険組合の、京都の保養施設の宿だった。
室内は、和室に床の間、窓際の板の間に椅子とテーブルと洗面台、内風呂はなし、という昔ながらの旅館の雰囲気。
しかし、すみずみまで掃除が行き届いていた。
しかも、入室するなり、母が「さすが京都」と、あちこちで感動している。
母の感動のポイントは・・・。
床の間には、一輪ざしではなく、きちんと花が活けられていた。
今の季節に野に咲いている、赤いケイトウと青紫のりんどうと、緑の葉の枝、という内容で、珍しくもゴージャスな花でもないのに、目に華やかで、この部屋のためだけに前もって活けられたという心遣いも嬉しいものだった。
この花の活け方は、三種活けというルールを踏まえたもので、いけばなの心得のある人が活けたものだ、ということ。
室内の縦の柱と天井近くの横の柱(正式な用語がわからない・・・)の交差点には、菱形の装飾金具がはめ込まれているが、これは、かなりの腕前の大工ではないとできないこと。
室内には、昔ながらの三面鏡の鏡台が置かれていたが、この鏡台は杉の一枚板で、古くて良いものであり、きれいに保たれていること。
和室なので当然畳敷きだが、吹き清められていることが明らかにわかる清潔さであること。
母に言われなければ、私はその部屋の凄さがわからなかった。
いけばなの心得がある人、腕前の確かな大工、杉の一枚板の鏡台、和室の徹底した清掃のしきたり、野に季節の花が咲いている環境。
それらのすべてが、地元からするっと調達できる地、になるには、歴史がないとできない。
食堂で出された夕食は、懐石にのっとったメニュー構成ではあるものの、とびきり豪華な食材が使われているわけではない。
しかし、天ぷらに添えられているのが天つゆではなく、抹茶塩だけ、とか、昔ながらの旅館っぽく、おひつに入ったごはんが置かれ、自分たちでよそい放題なのに加えて、炊きぐあいが柔らかめで美味、とか、庶民的なお茶であるはずのほうじ茶が、とびきり香りがよくておいしいとか、随所に、京都ならでは、の風情が感じられる。
ちなみに、ほうじ茶も、テーブルごとに、お茶缶と急須とお湯入りのポットがどんと置いてあるので、好きなだけ飲める気楽さが嬉しい。
ポットは、昔ながらの、お湯を熱く保って、上部の丸を押す、という四十年ほど前に登場した、最も原初的なものだが、お湯は熱々だし電源コードレスだし、最新型のポットみたいに、色々なボタンをつけなくても、これで充分なんだよね、と思う。
瀬戸内海のホテルは、新しくておしゃれなインテリアや設備や演出を、がんばって、つくっている印象だったが、京都の宿は、新しくも豪華でもない、古くからある、普通のモノ・コトを、がんばらずに、クオリティの高いレベルでするっとこなす、という印象なのだ。
ふと、これって「おしゃれ」に似ているんじゃないかなあ、と思った。
本当におしゃれな人って、虚栄心がないこと、がんばった感がないこと、じゃないか、と以前ダイアリーに書いたと思う。
お金をかければ、瀬戸内海のホテルのようなおしゃれさんには、なれるだろう。
しかし、京都の宿のようなおしゃれさんには、なれない。
時間、環境、非言語領域の教育、の結果、センスが身につくんだろう。
ニューヨーカーが必ずしもおしゃれの代名詞にはならないのに比べ、パリジェンヌが不動のおしゃれの代名詞であるのは、パリにも、京都的な、お金で買えないセンスに似通ったものがあるからという気がする。
京都にもすっかり近代的なホテルが立ち並んでいるが、そこに宿泊していたら学べないことを得たなあ、と感じる夏休みだった。
母へのリスペクトもプラス。