言われつづけているよ

ここのところ、「通りすがりにブス」ネタは書いていなかったけど、ちゃんと言われつづけている。
最近言われた二件と、それに対する自分の乗り越え方を、記しておくことにする。
先月言われたのは、○ッドタウンのB1にあるスーパーの、デリカコーナーの店員から。
惣菜に値下げシールを貼りにきている店員に「ブス」と言われる。
その店員はマスクをつけていたから、聞こえないと思っただろうけど、聞こえてるよ。
しかし、スーパーに、お客として入って、店員からブスって言われるのって、初めて。
その店員は、デリカコーナー以外には立ち入っていなかったから、そこの担当なんだな、と判断。
もしもその店員が、調理者でもあったら、と思ったとき。
今後二度と、○ッドタウンのスーパーのデリカコーナーの惣菜は買わない、と決意した。
すぐ隣のコーナーは専門店の惣菜で、専門店内の担当者と調理者は全く別のはずだから、惣菜が欲しければそちらのコーナー内だけで買えばいいのだ。
このくらいの、個人的な小さな制裁は、許されるよね。
ほうらお客をひとり失ったよ。
もう一件は、今朝。
青山一丁目のホンダビルの前の交差点の横断歩道を渡っているとき。
私の肩くらいの背丈の会社員が「ブス」とすれちがいざまに吐き捨てていく。
その不快感、15分で乗り越えた。
まず、私は悪くない。
私が、私の味方になってあげなくてどうする。
悪いのは、あちら。
私のすぐ前にも隣にも女性はいたのに、わざわざ私に視線の焦点をあわせることを選択した、あちらの判断の誤り。
世の中の、さまざまな事物に対して、それらが持つさまざまな美しさ、深さを汲み取ることができない、感性の浅さ、世界の狭さを、あちらが持っていることが悪い。
例えば、わび・さびの美の流れを汲んだ碗を見ても、汚らしいゴミとしか映らない人がいるように。
人間の見方が、浅い、狭い、あちらが、悪い。
悪いのは、あちら。
私ではない。
日常、私の身の回りにもさまざまな女性がいるけれど、どんな女性もそれぞれ美しいと思っている。
それは、人間の見方が、どこまで深く、きめ細かくなれるか、に関っている感覚なのかもしれない。
世の中のさまざまな事物への、見方を養っていくこと、に関わっている。
風景も、植物も、着るものも、動物も、土も、石も、たぷっとしたやわらかそうな脂肪ののったおなかや腕も、あふれんばかりの生命力をもてあましてきらきらした奇声をあげて走り回っているこどもも、アスリートの汗や筋肉も、いい感じに水分と脂分と色素が薄れた、老木のような渋い顔や体も、それぞれ美しさがあるのだ。
というわけで、15分で乗り越えることができた。
今後もこの乗り越え方で対処しよう。