美の既得権

発端は、先月の朝日新聞「悩みのるつぼ」の「働くことの意味に悩む大学三年生男子」からの質問と岡田斗司夫の回答を読んだときだった。
岡田氏の回答は、人は「子ども」→「青春」→「大人」へとシフトしていくもので、質問の悩みは、「青春」→「大人」へのシフトの過程で起きるものであり、「大人」にシフトした時点でこの悩み自体が無くなるというもの。
私はこれを読んだとき、二冊の本を思い出した。
ニートの歩き方」と「脱社畜の働き方」である。
私がこの二冊に共通して持った、読後感想があった。
今はいいけど、十年後もそれでいいの?というものだ。
たぶん二冊とも著者は三十代だろうか。
三十代って、見かけは二十代から大きく隔たることはないと思う。
まだ、二十代のような、自由さや、やんちゃさが、見かけにそぐう。
でもね、四十代からの容姿の劣化、老化の速度アップぶりは、二十代、三十代と同じようなことをしていても、「見かけ」がそれに似合わない、許さないものになっていくよ。
ここで、思ったのだ。
犬や猫や小鳥って、見る人が見れば分かると思うが、人間における二十代から六十代くらいまでの「見かけ」が、あまり変わらないと思う。
少なくとも、人間の変わりっぷりに比べれば、変化度は小さいと思う。
それは、犬や猫や小鳥の、二十代から六十代的な年代のあり方、やること、が、あまり変わらないからでは?なんて思ったのだ。
人間が、見かけが老化していく生物であるということは、大人になることが要求される生物だからなのでは、と。
鏡に映る自分を見たとき、ああ、こんなことやっていられないな、って思うように、セッティングされている生物なのではないだろうか。生きるために。
なんてことを考えていたら、別のものを思い出した。
美魔女である。
消費金額が大きい層として期待される中高年女性の、美の基準に「美魔女」を据えることは、マーケットにとって、お金を生む、お金になるはずだから、今後もこの美魔女マーケットは存続するのだろう。
美魔女コンテストで入賞するほどの方々は、二十代の頃から、もともと美しい人だったんだろうな、と思う。
見かけが老ける生物である限り、この「美の既得権」を失わないためだけでも、労力と費用がかかるのだ。
その費用を落とす先が、美魔女マーケットである。
鏡に映った自分を見ても、まだ、こんなことやってていい!と思わせるだけの若さと美をキープするのだ。
二十代から六十代まで、見かけの変化を少なくするということは、「あり方」「やること」の変化も少なくしてくれるはずだ。
それって、人間が、いかに犬や猫や小鳥にシフトできるようになっていくかってこと?
まさかね。