ロレックスの矛盾

井川意高著「熔ける」を読む。
副題には「懺悔録」とある。
おそらく文字化したのは本人ではないだろうから、本人の意図ではなく編集側の意図かもしれないが、懺悔録というより、自慢話の書という印象だった。
思い出したのは、ブロードウェイミュージカル「RENT」の名曲のひとつ「シーズンズ・オブ・ラブ」の歌詞。
そこには、「あなたは1年という時間を、どんなものさしではかる?」と歌われている。
人はそれぞれ、ヒトやモノや時間や人生の価値観をはかる自分だけの「ものさし」を持っている。
そして、井川氏のものさしは「社会的にわかりやすく具現化されたもの」という気がする。
いうまでもなく、その代表例は、金銭であるが。
そう感じたのは、著者が、子どもに触れた記述から。
娘と息子の、現在通学中の学校名を記している。
これってふつう、隠す情報なのになあ、と奇妙さを感じて、あ、と思った。
娘と息子が持つ一番の付帯価値と著者が見なしているものが、学校名なのである。
同じように感じたのは、罪を問われ、裁判になったときの担当弁護士のことを、「有名な○○事件を担当した」と紹介するところ。
その人の話すこととか、行動の仕方とか、人格面での面白さや好ましさとか、いわば人間性の魅力は、その人と関わった人にしか見えない。
だから、その人と関わりのない大多数の人間にも通用する、わかりやすいものさしが必要だとするならば。
それは、社会的に名が通った所属、経歴、収入額、資産額、になるんだろうなあ。
金額の場合は、ひたすらその額の大きさに、価値も比例するということになる。
ギャンブルの経歴で、種金100万円が2千万円になったこともある、と著者は記しているが、それって、種金1万円を20万円にするというレベルでは、著者の価値観のものさしの一目盛にもひっかからないってことだったんだろうなあ。
そして、読み終わって数日後、この書の内容の中で、私の中に浮かび上がってきたのが「ロレックス」だった。
金曜の夜に羽田空港からシンガポールのカジノへ向かい、月曜の朝に日本に戻るまでのあいだ、著者の願いは、ほとんど飲まず食わず眠らず、少しでも長くのあいだ、カジノのギャンブルのテーブルについていたいというものだったとのこと。
従って、もしも金曜の夜の時点で、持ち金も借金の限度額も底をついてしまうと、まだ土日という時間があるのに、ギャンブルができないなんて!という思考状態になるそうなのだ。
あるとき、その対処方法として、自己が所有するクレジットカードがゴールドのさらに上のブラックカードで(でも、ブラックよりさらに上のレベルもある、と著者は気にしている)、3千万円まで買い物ができることを利用し、買えるだけの個数のロレックスを買い、それを質屋で現金化して種金にしたことがあったそうだ。
庶民の感覚でいくと、5万円を種金にして100万円になった〜よっしこれでロレックスを1個買おう!と思うんじゃないだろうか。
すでに、ロレックスを何十個も買える身分にあるのに、金を得るギャンブルをするって、すごく矛盾している・・・。
いや、もうそこに「ロレックス」の姿は、ないのだ。
著者がロレックスに与えた定義は「老舗の高級時計」ではなく「○○円で換金することができる時計」である。
数値ではっきりと大小が解るお金を種にして、より数値の大きいお金を生み出す、というギャンブルの構造のわかりやすさは、著者の価値観のものさしに、ぴたっとはまったのかもしれない。
私自身は、ロレックスには永遠に縁がなさそうである。
腕時計が手首にぴたっとつくと、すぐ跡が残るのがいやで、ゆるゆるのブレスレット型の腕時計に行き着いた。
8400円のスウォッチを愛用中。換金する価値も予定もナシである。