映画:ブリングリング 私的メモ

ソフィア・コッポラ監督の最新映画「ブリングリング」を見た。
映画の感想にこんなセンテンスは滅多に使ったことがないのだけど。
…つまらなかった。
このひとつ前のソフィア監督作「SOMEWHERE」は未見である。
ただ、その他の作品「ヴァージン・スーサイズ」「ロスト・イン・トランスレーション」「マリー・アントワネット」は全部ロードショー時に映画館で見ていて、どれも好きな作品である。
どうして「ブリングリング」に限って?と考えてみると。
ソフィアの映画が輝くのには、彼女の私的な体験とひとすじ結びついている、という条件が必要なのではないだろうか。
そのひとすじの結びつきが、「ブリングリング」には無いような気がする。
ロスト・イン・トランスレーション」の、ポップな光彩に涙ぐんでいるような、夜の新宿の撮り方を見たときに思った。
ソフィアはどんな風景でも「私室」のように撮ってしまう人である。
それはまるで、お気に入りの小物や衣類が、雑然と、しかし計算ずくのインテリアのように散りばめられた私室のよう。
夜の新宿丸ごとだろうが、ベルサイユ宮殿丸ごとだろうが、膨大な物質量と情報量に怖気づくことなく、素材を無造作に散らかして趣味の良い私室のムードに仕上げてしまうセンスは、ソフィアの育った裕福で文化的な土壌に培われたものだと思う。
なのに。
贅沢で豊富な物質が散りばめられた私室の中の住人は、幸せというわけではない。
そこに描かれるのは「私室の中の孤独」なのである。
未見の「SOMEWHERE」も、「ロスト・イン・トランスレーション」と同じくソフィアの私的経験に基づいたもので、映画業界関係者の父(夫)と娘(妻)の旅先の話である。
「旅人」って、ふつうは「自由な」という形容詞が似合いそうなものだが、ソフィアの場合は「不自由な旅人」に変容する。
ヴァージン・スーサイズ」で、母親により私室にほぼ閉じ込められる状態となった四姉妹のように、「マリー・アントワネット」でベルサイユ宮殿という豪奢な空間に閉じ込められた十代の少女マリー・アントワネットのように、「ロスト・イン・トランスレーション」で旅先の異邦の地東京で、宿泊先のパークハイアットに籠った二十代の妻シャルロットのように「一定の空間に閉じ込められた少女」がソフィアの映画には登場する。
これがソフィアの映画の魅力の核となる「私的体験との、ひとすじの結びつき」だ。
ソフィアの映画は、しばしば「ガーリー」と表現される。
少女が、一過性の感情を日記に留め置くような儚さと気負いのなさが、ソフィア映画の「ガーリーの素」だ。
少女は、あたかも映画がノートであるかのように、そこに一過性の感情を綴って、留め置くのである。
「ブリングリング」には、そんな少女像も(エマ・ワトソン演じる、学校に行かず自宅で母親から特殊な思想を教えられる少女に、その片鱗が見られるが)、「私室」化してしまう撮り方も、薄められている印象だった。
ということは、魅力も薄められる。
映画に限らず、小説でも演劇でも短歌でも作詞でも、創作者には、私的体験にひとすじ結びついた題材でこそ輝くタイプと、まるで関係のない題材に憑依してしまえるタイプがいるのかもしれない。
「ブリングリング」は、ソフィア映画の魅力の核を検証し直すことができたという点で、鑑賞して良かった、と思う。