芸術は、身体が喜ぶもの

前記事からのつづき。
太田記念美術館で、既視感たっぷりの、葛飾北斎富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」を目前で鑑賞。
本物には、美術や日本史の教科書の中に、小さく掲載されている状態とはまるでちがう衝撃があった。
思い出したのは、その日の前日に読んだ、「村上春樹で世界を読む」(著:重里徹也 三輪太郎)の中に、「芸術は(鑑賞者の)身体が喜ぶかどうかがすべて」というセンテンスがあったこと。
「身体が喜ぶ」というのは、「快さ」だけというわけではなく、「恐怖」とか「驚き」とか「気づき」とか、身体に何らかの高揚感や、ムーブ、波を起こす状態だと思われる。
「神奈川沖浪裏」を直に見たとき、なぜこれが世界レベルで名作と称えられるのか、わかった気がした。
身体が喜ぶんだ。
絵の中に、人間の身体が喜ぶ形があるんだ。
その形とは、「相似形」だ。
まじまじと実物を見るまで気が付かなかったけれど、右奥に見える富士山のシルエットと、左手前の低いほうの波のシルエットが、同じなの。
まずここに一つ、富士山のシルエットと、波のシルエットの相似形のペアがある。
波のシルエットのほうが、富士山のシルエットより大きいから、富士山に向かって、奥行きも生まれる。
それと、左上の、大波。これ、すごく強大な、曲がった矢印のような形。
迫力のあるしぶきが踊る大波に目をひきつけられ、急激にその矢印の指し示す先、富士山に視線がぐいっと落とされる。その快感。
視点の終着点が、体操の名着地のようにだんっ!と決まり、また終着点そのものが、美しい富士で。
この大波も、ペアとなる相似形を持っている。それは、空に浮かぶ、大雲の形。
大波と雲のかたちは、ぴったり一致しているわけではないけれど、同じリズムでうねった形が心地よい。これが二つ目の相似形のペア。
それから浪間に翻弄される、三艘の船。
三艘のうち、二艘の配置は、右奥の富士山に対する船の位置と、左手前の相似形の波に対する船の位置とが同じ。
「富士山+船」「左手前の波+船」とで、新たな三つ目の相似形のペアができる。
三艘の船は、それぞれの波の曲線の相似形でもあり、相似のリズムを強調する役目もあり、絵の中の、伴奏者のような感じでもある。
ついでに、船にひっしとしがみついている人々の白い丸い顔は、波に浮かぶ丸い泡、波しぶきから雪のように散る白い水玉と呼応している。
いくつもの相似形のペアが呼応する構図、は、小津安二郎黒澤明アンリ・カルティエ・ブレッソンも用いている。
着物にも、相似形を生み出すコーディネートがある。
着物にほどこされた模様の形の、相似形がデザインされた帯を合わせるようなコーデ。
相似形が生みだすリズムは、人間の身体を喜ばせる、何らかの力があるのかもしれない。
この「神奈川沖浪裏」が、世界にウケるのは、当然なことだったんだ。
鑑賞する人間の身体が喜ぶんだもん。
北斎も、意識的にせよ無意識にせよ、そのことが分かっていたとしか思えないなあ。
つづく。