歌枕と記号化

前記事のつづき。
浮世絵に描かれた富士山のさまざまな姿を見て、富士山は「歌枕」のようなものでもあるなあ、と気づく。
「歌枕」という発想は、内田樹の著書「邪悪なものの鎮め方」内の、秋葉原殺傷事件に言及した章がヒントだった。
過去の和歌(犯罪)を踏まえて詠まれた歌(犯罪)は、その歌自体は凡庸なものであっても、「歌枕」を持つというだけで、系譜上で意味のある歌(犯罪)として受け止められるのだそうだ。
もちろん、太田記念美術館に展示されている富士の浮世絵は、富士山の歌枕パワーを借りた凡庸な作品ではなく、珠玉作品ばかりだけれど。
江戸時代から時を経て、富士山の可視範囲がぐんと狭まった東京に、富士山と同じ力を持つ歌枕はない。
(東京タワーが、都市の風景の核となる役目を負ってきたのかもしれないけれど)
歌枕は二次元の世界へ(漫画やアニメーション)、そしてデジタルの世界へ(初音ミクとか)、といったところだろうか。
ちなみに、「邪悪なものの鎮め方」内の、同じ秋葉原殺傷事件に言及した章で、もうひとつひっかかった箇所があった。
この事件で、加害者は、個人の怨恨や利害が理由ではなく、殺傷の対象は誰でも良かった、と述べている。
つまり、被害者は、殺傷事件そのものの成立のために殺された、「記号化」された存在だったということ。
その後、マスコミによる事件報道でも、被害者たちは再度「記号化」されて語られる。記号化により、被害者は二度、殺されることになると。
記号化…。
私が実生活で行っている「記号化」といえば、仕事だ。
生身の顧客に触れることが殆どない部署で、触れるのは、圧倒的にデータとなった顧客。
だけど、もし生身の顧客に触れる仕事であっても、どんな人間か、というよりも先に「顧客」という記号化を心理上でしてしまうだろう。
だって仕事って、ある程度「記号化」しないと、やっていけない気がする…。
自分がどんなに思い入れの深い商品でも、売れなければ切らないとダメ、という感じに。
と、そこで、唐突に、テレビ番組で二十年ほど前に聞いた、山田邦子の発言を思い出した。
当時、お笑い系のタレントとして絶頂期だった山田邦子は、自分はお笑いが一番好きなので、お笑いの仕事をしたい!という若者から相談を受けることが多かったのだそうだ。
それに対する山田邦子のコメントは、「一番好きなことは仕事にしないほうがいいよ。仕事にするなら二番目に好きなことがいいって答えている。」とのこと。
突然、今更ながらに、その意味が分かったような気がする。
どんなに好きなことでも、愛することでも、仕事にするとどうしても「記号化」が起きてくる。
「記号化」が、ある意味で「殺すこと」になってしまうのなら…。
記号化する対象が、ある程度クールに接することができるものじゃないと、好きなことが仕事のはずが、苦しくて悲しいことになってしまうのでは…。
つづく。