欲望のキャパシティ

着物に興味を持ち始めて、八ヶ月が経過。
予測していなかった効果に気が付く。
それは、洋服方面の欲望が減ったこと。
洋服の着方は、どんどん地味になっている。でも、それで満足だ。
たぶん、「着飾る」という欲望が、着物でほぼ満たされちゃっているせいである。
去年の誕生日に着た、着物コーデの写真を母に見せたときの、母の感想はひとこと。
「地味ね」
洋服を選ぶ感覚で着物を選ぶと、そうなるらしい。
洋服の着方を試行錯誤した結果、私は自分が着る洋服から、ストライプ以外のプリント柄をすべて駆逐していたくらいなのである。
でも、着物に対して同じことをする必要はまったくない。
日本に存在する、百花繚乱のさまざまな着物の柄に、背を向け、あきらめる必要はない。
必ず、その人に似合う華やかな柄があるから。
母からもらった小紋は、たしかに、華やかすぎて、あるいは可愛らしすぎて、自分にはそもそも縁がない、という理由で、絶対に選ばなかっただろう。
でも、来てみたら、派手すぎるという感じにはならなかったのに、目が覚める思いだった。
ふうん、着物だったら、私、このくらい華やかなものを身に着けてもいいんだ!と嬉しかった。
面白いことに、着物は個人によって、好き嫌いがはっきり分れる。
着物のプロたちが選んだ着物やコーデを雑誌等で見ても、これいいなあ、着たいなあ、とは滅多に思わない。
洋服の場合は、お手本やカリスマとなる雑誌やセレブやスタイリストがつくられても、着物はそういう存在がつくられにくいのではないかと思う。
洋服の場合は、自分より美しいもの、目立つものを身に着けたら、自分が負けて、自分の不美人さを強調する、と思った。
その方向性はまちがっていないと思っている。
だから、これから私の洋服の着方は地味なままだし、同じようなデザイン、言わば「制服化」していくと思う。
どんな制服にするかは、まだ未完成だけれど。
だが、どうやら、私の中に、もっと華やかな衣類を身に着けたい!という欲望が、ひっそりとしまいこまれていたらしい。
その欲望と折り合うことができないから、洋服の着方に、満足できないままだったのかもしれない。
人それぞれ、欲望のキャパシティはちがうと思うけれど、とりあえず私の中の「着飾る欲望」のキャパシティは、着物でたっぷり満たされている。