映画:ビフォア・ミッドナイト

「ビフォア・サンライズ(公開時邦題「恋人までの距離」)」(1995)、「ビフォア・サンセット」(2004)、「ビフォア・ミッドナイト」(2013)。
9年ごとに公開された、リチャード・リンクレイター監督、イーサン・ホーク、ジュリー・デルビー主演の、三作の映画。その三作目を鑑賞。
三作すべてを、初公開時に(つまり映画のインタバルと同じく9年ごとに)映画館で鑑賞できたのが嬉しい。
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一作目のイーサン・ホークとジュリー・デルビーの撮影時の年齢を公開の前年とすると、イーサンは24歳、ジュリーは25歳。しわ1本さえ無縁の、ぴっかぴかの美男美女だ。
若さと美しさと知性と可能性を持ったふたりが、一人旅の道中、ユーロスターの同一車両に乗り合わせ、ウィーンで途中下車をして、1日だけ一緒に旅をする。
二作目は、小説家となったジェシー(イーサン)が、自著のフランス語翻訳版のプロモーションのために訪れたパリの書店で、セリーヌ(ジュリー)に9年ぶりに再会する。
ジェシーのニューヨーク帰国便の飛行機の時刻まで、ともに過ごせる時間は、映画の上映時間とほぼ同じ長さであり、物語の時間感覚も、ほぼリアルタイムで進む。
同じ方法で二作目撮影時の年齢を見積もると、イーサンは33歳、ジュリーは34歳。
ふたりが持っていた「可能性」は、それぞれ現実の社会で花開き始めたところ。
ジェシーは小説家になり、ジュリーは故郷のパリで、政府系の慈善団体で活躍中。
三作目は、それから9年。ふたりの見積もり年齢は42歳と43歳。舞台はギリシアの1日。
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一作目から、三作目まで、それぞれに象徴的な「乗り物」が登場する。
一作目のウィーンでは、「第三の男」へのオマージュらしき、観覧車。
目的地も速度の追求も無関係に、地表から離れてひととき浮遊する観覧車は、未来への希望に満ちた、大人としての現実の厳しさに未知なふたりの、まだ地に足をついていないでいられる状態の乗り物にふさわしい。
二作目のパリでは、セーヌ河のフェリー。
フェリーは、河の水面に「ついて」いる乗り物。ふたりはフェリーに乗った移動中も、たえまなく会話しつづけているのだけれど、パリの道路の騒音、雑踏、フェリーのエンジンが水面をはじく音、エンジン音のうなりなど、周囲のノイズがしっかりと拾われている。
ノイズは、現実。
ウィーンと違って、ふたりには、常に気をとめていなくてはならない「現実」、逃避できない「現実」がある。
三作目の「乗り物」は、映画が始まって間もなく登場する。
車である。一番平凡といえば平凡な乗り物。
この車を運転するのはジェシー、助手席にはセリーヌ、後部座席には…。
一作目の冒頭は、ユーロスターの車両内のシーンで始まっていた。
列車が人生の象徴だとすると、途中下車をしたふたりは、人生の途中下車をしたことになる。
三作目の車もまた、ふたりの人生の象徴。
車の中にあるものは、ふたりが背負うもの、平凡さの象徴に加えて、しっかり地面に足がつき、道路の上を走る限界性を持つ車は、ふたりが今、歩んでいる人生のかたち。
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三作目まで鑑賞し、初めて気が付いたこと、いろいろ。
この映画は三作とも、ものすごく膨大なセリフ(文字)が展開する映画である。
ほぼたえまなく流れ続けるふたりの会話は、もはやセリフというより音楽の一種。
それから、三作目の中で、とても印象的だったのが、ジェシーセリーヌのことを、「毎朝、君の「思考の音」が始まるのを聞くのが好きだ」というセリフ。
思考に音があるの?とセリーヌは聞き返す。
リチャード・リンクレイター監督は、聴覚の人なのだと思う。
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会話がはずむ、とか、会話がかみあわない、という表現がある。
ほんとうに、この人とは音楽の演奏かテニスのラリーのように、小気味よく会話が続くのに、この人とはどうしてぜんぜん会話が続かないのか?という経験は多々。
ジェシーセリーヌは、このうえなく会話がかみあうふたりである。
こんなに会話がかみあうこのふたり、どんなにいさかいがあろうとも、お互いが好きで、離れられないんだろうなあ、と思わせる。
というよりも。
二作目で、ジェシーが小説家になっていた、という結果を考えると、別の姿が浮かび上がってくる。
セリーヌは、ジェシーにとって、何度も繰り返し読みたい、また何度読んでも新たな発見がある「本」のような存在なのではないだろうか。こういう「本」は、捨てることはできない。
最初は、アメリカ男子のミソジニー(女嫌い)の産物のキャラなのかな、と思われた、気が強くて、ときに弾丸のようなセリフを繰り出すセリーヌの姿は、ユニークな文字情報を蓄えた一冊の本のようにも思えてくる。
また、その本は、読み人によって、内容が豊饒なものに、はぐくまれていくようなのだ。
ジェシーは、セリーヌの読者でもあると同時に、セリーヌの文章を綴りだす、作家でもある。
だから、小説家ジェシーの著作は常に、セリーヌがテーマだ。
以前、パトリス・ルコント監督の「親密すぎるうちあけ話」を見たときに、異性の愛し方には、「見る愛し方」、「聴く愛し方」、があって、「見る」より「聴く」ほうが、その異性の内側まで知ろうとする愛し方かも、と思った。
ジェシーの、セリーヌへの愛し方は、「聴く愛し方」である、間違いなく。
リチャード・リンクレイターもまた、「聴く愛し方」の人なのだろう、間違いなく。