サンドラ・ブロックとかディカプリオとか

今週は、なぜか落ち込みモードで、なかなか気分がアガらない。
雑多なことを書きつらねてみる。
アカデミー賞結果。
ゼロ・グラビティ」の名が多数。
あの映画を見たとき、「ヒモ状」の事物がちりばめられているのが面白かった。
サンドラ・ブロックジョージ・クルーニーと、スペースシャトルや衛星を、繋ぐヒモ状のもの、サンドラが、酸素ゼロの状態から、宇宙船内に逃げ込み、宇宙服を脱ぎ、羊水の中に浮かぶ胎児のようなシルエットで、ほっとひととき浮遊するときに、へその緒のようなイメージでサンドラの身体からつながるヒモ状のもの。
宇宙船そのものにまきついた、巨大な多数のヒモ状のもの。
ヒモ状の事物が、アクシデントを起こしたり、ドラマの進行を促したり、美術面での装飾の役割を果たしたりする。
アルフォンソ・キュアロンは、統一したイメージを投げ込む監督らしく、そこがとても好き。
(「ハリー・ポッターとアスカバンの囚人」では、監督が偏愛する緑色のイメージで画面全体を浸し、「囚人」というタイトルに合わせて「閉じ込められる」イメージを想起する演出が随所にあった)
主演のサンドラ・ブロックは、長年一線にいつづけ、いい役柄がまわってきて、賞レースにも、顔を見せることが継続できている女優だなあ。
彼女の、いい意味での色気のない身体、ハンサムな身体は、ゼロ・グラビティに、健やかな生命力を持った人類女性代表として、ぴったり。
サンドラ・ブロックから、思い出したのは、レオナルド・ディカプリオ
ウルフ・オブ・ウォールストリート」も「華麗なるギャツビー」も、技術面はともかく、演出・俳優面ではアカデミー賞の結果はふるわなかった。
ディカプリオも、サンドラと同じく、息が長い、一線にいつづける俳優になっている。
華麗なるギャツビー」は、随所の演出に、バズ・ラーマン監督とディカプリオの初邂逅作「ロミオ+ジュリエット」をなぞったシーンがあった。窓ガラス越しにかつてのギャツビーとデイジーが出会うシーンとか、(ロミジュリでは水槽越し)、最後のシーンで、至福と絶望が交差するイメージの演出法(ロミジュリでは目覚めるジュリエットと毒を飲んだロミオの同時の交差)とか。
自分の作品で、自分の作品のオマージュをやってしまうか。監督、かなりの自信家かも。
「ウルフ…」は、マーティン・スコセッシ監督の大好きな、長セリフ、長ナレーション、モブシーンがてんこもりの映画だった。
ディカプリオの、声、しゃべり方って、「陽」だから、この長時間の超絶ナレーションが、耳につらくないんだよね。
その点、スコセッシ監督作の代表的俳優だったデ・ニーロは「陰」寄りだったような。
ともかく「ウルフ…」は、全編、ディカプリオのプレゼンテーション映画といってもいいほどの、彼が「喋る」映画だった。
ディカプリオも、サンドラ・ブロックと同じく、いい意味で色気がない…というか、邪気がない。
彼が演じると、奴隷制全盛時代の南部アメリカの極悪非道な農園主でさえ、邪気のなさゆえ、悪人に見えない、というすごさが。
サンドラ・ブロックにしても、ディカプリオにしても、俳優って、別人格になる才能を持った人、というより、その人本来の魅力をすでに持っている人たちであって、どんな役柄を演じても、隠しきれない本来の魅力が、味となってくる人たちなのかもしれない。
あ、それから。
愛されつづける俳優の条件って、見ている人間の、ドーパミンとかセロトニンを促す人たちなのかも。
ドーパミンとかセロトニンとかいう単語が思い浮かんだのは、最近読んだ、中野信子著「脳内麻薬」による。
つづく。