文化の更新

先週末、初めて着物で友人に会う。
薄い青みピンクのみじん格子の片貝木綿に、柳の葉を抽象化したデザインの袷の半幅帯の文庫結び。
文庫結びは浴衣に使うような薄いひらひらした布地の帯なら、たぶん簡単に結べると思うのだが、絹の袷だと、硬くて厚くて絹の威厳のプレッシャーがあって、ほんとにこれをぎゅっと結んじゃっていいの?折り曲げちゃっていいの?と怯えながら結びの練習をし、一箇所間違った状態で結んで外出したこともあり、正しく結ぶことはできても、リボン型の部分が重みでがくんっと後ろに傾く状態に悩んで、あ、そうか、と図画工作的な土台作りが思い浮かび、その土台を仕込んだらちゃんとリボンが乗っかってくれたままになった♪、という試行錯誤の日々の果てだった。
帯結びを制するには、もしかして図画工作的なセンスがいるのかもしれない。
着物は好評だったので、調子に乗って今度は夏の着物で会おう!と約束。
今回、友人といろいろ話した中で「持ち帰ったもの」のひとつに、「文化の更新」があった。
最近、映画を見に行っても、既視感がある。
映画という文化そのものが、発展途上の段階が終了した文化で、再生産の段階に入っているからかなあ、歌舞伎や能は、同じ演目を役者を変えて上演しつづけ、その時代その時代の人々に伝えていくという、再生産し続けていくことが、もはや義務である文化だけれど、と私。
友人は、自分は映画をそこまで見切っていないよ、と言った。
たとえば歌舞伎も能も、百年前の舞台と今の舞台では、ぜったいに様相が異なっているはず。
たぶん百年前の舞台を今私たちが見せられても、ついていくことができないと思う。
それは、上演しつづける中で、時代にあわせて、何かが更新されてきたということ。
映画も「自分の中で再生産される状態」になっても、映画そのものは、タランティーノが突如現れたときみたいに、次にまた新しいものを生む段階に向けて、何かが更新されつづけていると思うよ、と友人。
たしかに、たとえばいくら「未知との遭遇」がスピルバーグの原点を示す映画なんだと言われても、そういう「お勉強の目」で見ないと、娯楽作品として、今の観客を上映時間中ずっとひきつけておくのはもたないだろう。
(しかし黒澤明の白黒映画の時代の作品には、今見てもひきつけられっぱなしのものがあったりして、エターナルでコスモポリタンな黒澤の力には、ほとほと感心したりする)
じぶんがこれ、と決めた文化で、「次に現れる新しいもの」の感知を逃したくなければ、その文化の新しいもの、なまもの、に触れ続けていかねばならないのだろう。
「新しい生のネタ」に長期間触れない状態になってしまったら、新しいものを感知する味覚を失うのだろう。
そういえばファッションの世界でも「流行に沿った服装をしていなくても、その人が新しいファッションの情報を知っているかいないかでは絶対に差が出てくるものだ」と聞いたことがあるが、目には見えなくても、非言語領域のような感性の蓄積が、自覚しないところで行われているものなのかもしれない、人間ってやつは。
「自分の感受性くらい自分で守れ」という詩人の言葉が応えるなあ。
文化は、送り手であることを維持するほうが、はるかにはるかに大変なことだと思うが、受け手であり続けるためにも、忍耐力がいる。
文化の「雑食・大食」の段階を経て味覚が作られて、味覚の維持と磨きこみの段階に行けるかどうか。
たぶん私、自分が今持っている「映画の味覚」は、大切にしたほうがいいよなあ、と感じた。
そこで「ブルージャスミン」に続いて、先週は「チョコレートドーナツ」を観にいく。
感想はまた後日。
注)老婆心ながらの意見。
この場合の「文化」とは、「依存性がないもの」でなくてはならないと私は思っている。
「ゲーム」「ギャンブル」は、文化のひとつであるかもしれないが、依存性がある点で、よほど超越した冷静な受け手ではない限り、「更新」し続けていくものではなく、いつか「卒業」するものではないかと思う。老婆心だけど。