完璧な人間はいないから

今朝、通勤電車内でのこと。
祖母と孫と思われるふたり連れが、同じ車両に乗り込んでくる。
孫は、いとけない幼児の男の子。
つまりどっから見ても間違いなく「コドモ」である。
車内に乗り込んだとたん、祖母が孫を叱りはじめた。
乗車する際の、どうってことないことが理由らしい。
何でそんなこともわかんないの!駅名があそこに出ているでしょ!(と、ドア上部の漢字の駅名のプレートを指す。漢字が読める年齢ではないはずだ)
こどもはその幼さに対して、こちらが感動するほど、澄んだ「はい!」という返事。
おばあちゃんと話しているときはおばあちゃんの目を見なさい!「はい!」(と、孫じっと祖母の顔を見上げる)
○○はバカだから、いじめられるのよ!「はい!」(このセリフは私がいる間(10分間)に、3回くらい言ったかな)
ぜったいに目をそらしちゃだめよ、他のところを見ちゃだめ!「はい!」(わけがわからない指導。周囲に目を配らないほうが危険だと思うが)
私はもう一緒にいられないからここで降りる、と、突如ひとり孫を残して途中駅で電車を降りようとするしぐさをする祖母、それにすがる孫。
こんなんじゃ今日は幼稚園に行けない、家に帰ろう!という祖母に、半泣きの声を出して抵抗する孫。
ダダをこねているのは、孫のほうじゃなくて、祖母のほうである。
祖母にもダダをこねる相手が必要な事情が何かあるのかもしれないけれど。
私が降車する迄の約十分間、ずうっと祖母は孫に怒りつづけていた。
降車後も、祖母の歯止めとなるものはないはずだから、さらに続いていたはずである。
私は強く願った。
坊や、早く大きくなって、おばあちゃんから離れなさい。
おばあちゃんは病んでいる。いっしょにいたら坊やも病む。
コドモ相手に、いくらくどくど叱ってもわかるわけないじゃん。
しかも叱る理由も不透明で。
おそらく、祖母自身が、日ごろの生活で何らかの憤りを抱えていて、無力な幼い孫を、そのやり場にしちゃっているんだ。
コドモの父母が別途存在すると思うんだけど、幼稚園の送迎にこのおばあちゃんを使うこと自体、孫の害になっているのでは。
しかし、目の前で起こっていたことは、なんといっても家族間でのこと。
電車内で、コドモひとりが途方にくれていたら、いくらでも助けてあげるのだけど、他人の私が、ここで祖母をいさめたら、間違いなく逆ギレされるよなあ。
私にできることってないかなあ。せめて、コドモを包む優しいオーラのようなものは、出せないものだろうか?
と、コドモの背後に移動し、優しい波動出てくれ〜と、自分に念を送ってみたりした。
このコドモにとっては、祖母の近くで、病んだとがった波動を受け続けているよりも、祖母から離れて幼稚園や保育園にいる時間のほうが、ずっと健康的でためになるはずだ。
かつて、幼いこどもを家庭で育てず保育園に預けることはネガティブに受け止められていたが(今でもそう受け止める人はいるかもしれないが)、こどもの成長にとってポジティブな作用(だけ)を果たせる大人が家族である確率は、限りなく低い。
それはもう、完璧な人間はいないから、仕方がない。
ただでさえ世界のせまいコドモに、特定の大人に長時間接触させ続けるよりは、複数の大人から、多種の扱い方を受けたほうがいい。
おまえはバカだ、という大人は一部であって、それが評価のすべてではないとわかるはずだから。
(かといって、かつての社会主義国のような、GNPを落としたくないから母親も働いてくれ、こどもは国家が一括して育てるから、とファームのような保育施設でこどもを育てた結果、成人に達する前に三分の一のこどもが死んだ、(たぶん愛情を与えられないゆえに)という状態は極端すぎるが。)
これは差別感情はまるっきりなく、私は、幼いコドモは人間というより動物に近い存在だと思っている。
でもね、動物って、人間(大人)が思っているよりも、かなり、ずうっと、頭がいいんだよ。